この本を読んでいると、社会性昆虫にもホントに実にいろいろあって、
裏切りや(自分さえよければ)のような現象など、人から見ると反社会的現象がたくさんあるようだ。
そういう個と社会とがいろんな相互作用によって、
存続したり、存続しなかったりしている。
個と社会が互いの相互作用でなるべくしてなっている、という感じ。
研究してる学者は面白いだろうと思う。凄く大変なことだけど。
最後の方にあったけど、研究という活動は、
理論(ダーウィンの進化論)と一致した結果だと公表されやすく、
理論と一致しない結果は公表されずに終わる可能性が高いという。
人間そのものがもっともっと自由なる存在に成長しないと、
いくら研究しても無視されたりして、日の目を見ないことが多いのかと思う。
そういう結果、その時代に生きる人たちに研究による恩恵を与えられない。
適応するものが残るという進化論では研究についても、
その時代の多数の意識に適応する研究はその時代には尊重され、残るんだろうけど、
時という正直者によって、それは消えることもあるし、
研究者の死後、多数の意識が変化、進化してようやく尊重される研究もあるのかと思う。
どんな進化も共になるというなり方しかないのではないかと思った。
それはなるべくしてなる、という表現も相応しいのかと思った。
裏切りや(自分さえよければ)のような現象など、人から見ると反社会的現象がたくさんあるようだ。
そういう個と社会とがいろんな相互作用によって、
存続したり、存続しなかったりしている。
個と社会が互いの相互作用でなるべくしてなっている、という感じ。
研究してる学者は面白いだろうと思う。凄く大変なことだけど。
最後の方にあったけど、研究という活動は、
理論(ダーウィンの進化論)と一致した結果だと公表されやすく、
理論と一致しない結果は公表されずに終わる可能性が高いという。
人間そのものがもっともっと自由なる存在に成長しないと、
いくら研究しても無視されたりして、日の目を見ないことが多いのかと思う。
そういう結果、その時代に生きる人たちに研究による恩恵を与えられない。
適応するものが残るという進化論では研究についても、
その時代の多数の意識に適応する研究はその時代には尊重され、残るんだろうけど、
時という正直者によって、それは消えることもあるし、
研究者の死後、多数の意識が変化、進化してようやく尊重される研究もあるのかと思う。
どんな進化も共になるというなり方しかないのではないかと思った。
それはなるべくしてなる、という表現も相応しいのかと思った。