ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

在る・なる

2013-01-16 16:10:17 | 言葉
受容というのは、在るものを在ると頭だけでなく全体で認めること。

どんなものだろうとそれがそこに在るというのは、そうなってきた、ということ。

在るものはなって来たし、これからもなって行く。

春になった・・なんで春になったかというと・・・時間的空間的全体でそうなった。

春はいつか夏になって行く。

1年生が居る(在る)のは、その子が1年生になったということ。


究極の在りようは“なってきて、なってゆく”こと、そう思う。

古事記にある言葉で一番多いのが「なる」だそうで、

「なる」は見事な言葉だと思うよ。

意識がつくる人間界は“なってきて、より良くなってゆく”かと確信する。

外れ無し!

2013-01-16 14:25:38 | ひとの幸福
見ないことが究極の在りようを見ること。

究極じゃない在りようは幻。

幻は真実の光によって消えてしまう。

究極の在りようは幻じゃない。

そのものの本質といっていいかな。

真実の光で見出され光る。

人間なら、真・善・美を求めてしまうという性質。

主体的に生きたいと願ってしまう性質。

自発的にやりたいという性質。

自律的にやりたいという性質。

これは万人洩れなく外れ無し。当たり!。

その性質が在ることが究極の在りよう。

そのことに自信持っていい。根拠ある自信だ、これは。そう思う。

真実 ②

2013-01-16 14:02:25 | ひとの幸福
周囲と調和して全体が秩序立てて作れてしまう・・

という生命の在りよう・在り方から逃れる事はできない・・・

ということがどういう現象に現れているか・・・それは日常全ての現象に見られる。

「われわれはどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。

そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、

現実のように不安になる」・・・このことも、その瞬間においては不自然に調和している状態かと思う。

さっきはこれについて書こうと思ってたんだ。

調和できてたら世界は戦争やトラブルや犯罪もないはずって思いがちになるのは、

調和=よいこと になっているせいなのかな・・・

本当の調和というものはそうだと思うけど。

「調和」は広辞苑によると、うまくつり合い、全体がととのっていること。

いくつかのものが矛盾なく互いにほどよいこと。

ひとはいつも右往左往してる。

つい、ひとに邪険にしてしまい、そのすぐ後で、そうしてしまったことが気になり、

それを埋め合わせするような行為をしてしまったり。

右に行き過ぎると左に寄せようとしたり。

左に行き過ぎると右に寄せようとしたり。

優しくして相手がつけあがったと感じると、今度はきつくしたり。

こういうこともバランスをとろうと自然に意識がそうなってしまうということかな。


どんな現象もその瞬間においては、つり合いをとって全体が整っているようにしてしまう。

でも、それはその人が無意識に思っているその瞬間の全体であって、

もっと長いスパンで(時間的にも空間的にも)全体がととのうようなものでないことが多い。

湯川博士の、「現実にとらわれ過ぎる傾向がある。」という文章のように、

それが原因で不自然な調和になるのかと思う。

※とらわれはキメツケから生じる。

キメツケは空を空と見ないことから生じる。

空を空と見ない、そのこと自体も空なので、

人類という全体が進化、変化して行くことが本当の調和への道なのかと思う。

そして、全体が変わることになるキッカケはどんな場合も一部が変わることによってだ。

たった一つのカビ菌があることによって、

いつかお供え餅全体がカビだらけになると同じで。

(あまりいい比喩じゃないけど、この前お供え餅を食べたばかりなので)

そうなればなるし、ならなければならないけど。


※お節介な解釈・・

キメツケ・・・自分が無意識のうちにしている解釈を無意識のうちに絶対としている事。

とらわれ・・・自分が無意識のうちにしている解釈に縛られとらわれること。

空を空と見ない・・・一つの物事を一人の人間とか、一つの出来事に、

          原因を求めることが出来るとする境地から物事を見ること。


そのこと自体も空なので・・・空を空と見ない、そういう見方で物事を見るという現象

              も、その人一人でなったものではないということ。

なので、共に進化変化すること以外、道はないということになるんだね。

湯川博士のこの言葉が応援してくれる。

「真実はやがて現実になるのである」


真実

2013-01-16 09:21:54 | ひとの幸福
昨日だか一昨日だかに書いた、周囲と調和して全体を秩序立てて作れてしまう・・

という生命の在りよう・在り方から逃れる事はできない・・・

ということがどういう現象に現れているかは日常全ての現象に見られる。

湯川博士の「真実」という詩みたいな文章にもそれが書かれてある。

「・・・現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いているのである。

・・・それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。

・・・現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないのである。

現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。

真実はやがて現実となるのである。」

湯川博士が云う、簡単な法則とは上に書いた生命の在りよう・在り方、そのことかと思う。

生命はそう“なっている”。

それは生命のことで、人間界は自然界と同じじゃないという反論を持つ人が居るかもしれないので、

それは前にも書いたことがあるけど、又、書くね。

人間もその手で人間を造ることは出来ないところの自然のものであり、

その人間の意識から人間界の現象は発生するものなので、

この法則は当てはまる。で、湯川博士もこう書いているのだろう。

この詩の途中にはこういうのもある・・・

「われわれ凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。

そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、

現実のように不安になる。」コレ。

実に上手い表現だなぁと思う。ホントにその通りだ。

現実のように豹変し、なんていうことはしょっちゅうある。

ちょっとした一言で一気に粗暴な気持ちになったり、

ちょっとした一言で一気に慈愛に満ちた気持ちになったり、

何からどう解決して云ったらいいか皆目わからない混沌状態の気持ちになったり、

ちょっとした出来事で不安な気持ちがブワ~と膨れ上がったり、

・・・空である現象を空と捉えられない意識からそうなるんだと思うけど、

わかっちゃいるがやめられない。

一切のトラワレのない人になりたいもんだけど。

えーっと脱線だ。

・・続く。