周囲と調和して全体が秩序立てて作れてしまう・・
という生命の在りよう・在り方から逃れる事はできない・・・
ということがどういう現象に現れているか・・・それは日常全ての現象に見られる。
「われわれはどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。
そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、
現実のように不安になる」・・・このことも、その瞬間においては不自然に調和している状態かと思う。
さっきはこれについて書こうと思ってたんだ。
調和できてたら世界は戦争やトラブルや犯罪もないはずって思いがちになるのは、
調和=よいこと になっているせいなのかな・・・
本当の調和というものはそうだと思うけど。
「調和」は広辞苑によると、うまくつり合い、全体がととのっていること。
いくつかのものが矛盾なく互いにほどよいこと。
ひとはいつも右往左往してる。
つい、ひとに邪険にしてしまい、そのすぐ後で、そうしてしまったことが気になり、
それを埋め合わせするような行為をしてしまったり。
右に行き過ぎると左に寄せようとしたり。
左に行き過ぎると右に寄せようとしたり。
優しくして相手がつけあがったと感じると、今度はきつくしたり。
こういうこともバランスをとろうと自然に意識がそうなってしまうということかな。
どんな現象もその瞬間においては、つり合いをとって全体が整っているようにしてしまう。
でも、それはその人が無意識に思っているその瞬間の全体であって、
もっと長いスパンで(時間的にも空間的にも)全体がととのうようなものでないことが多い。
湯川博士の、「現実にとらわれ過ぎる傾向がある。」という文章のように、
それが原因で不自然な調和になるのかと思う。
※とらわれはキメツケから生じる。
キメツケは空を空と見ないことから生じる。
空を空と見ない、そのこと自体も空なので、
人類という全体が進化、変化して行くことが本当の調和への道なのかと思う。
そして、全体が変わることになるキッカケはどんな場合も一部が変わることによってだ。
たった一つのカビ菌があることによって、
いつかお供え餅全体がカビだらけになると同じで。
(あまりいい比喩じゃないけど、この前お供え餅を食べたばかりなので)
そうなればなるし、ならなければならないけど。
※お節介な解釈・・
キメツケ・・・自分が無意識のうちにしている解釈を無意識のうちに絶対としている事。
とらわれ・・・自分が無意識のうちにしている解釈に縛られとらわれること。
空を空と見ない・・・一つの物事を一人の人間とか、一つの出来事に、
原因を求めることが出来るとする境地から物事を見ること。
そのこと自体も空なので・・・空を空と見ない、そういう見方で物事を見るという現象
も、その人一人でなったものではないということ。
なので、共に進化変化すること以外、道はないということになるんだね。
湯川博士のこの言葉が応援してくれる。
「真実はやがて現実になるのである」