この前ここで感想を書いたその本の名は『空の智慧 科学のこころ』というもの。
その中の「空の本質」という章には、
「仏教では、ある現象が存在するのか、しないのかということを
どのように判断しているかというと、
正しい認識が対象物を見たなら、それが「ある」という定義であり、
正しい認識が対象物を見出さなかったなら、
それが「ない」という定義であるとされています。
これを理由に仏教では正しい認識を持つ心が大変重要だとされているのです。
対象物が存在するのか、しないのかは正しい認識を持つ心だけが決められるのです。」
・・・という文章がある。
これを読んで思い出してしまうのは、
以前にこのブログで何度も登場してもらって例題にしてる、
昼日中、井の頭公園でズボンから性器を出している男という現象のことだ。
それをこの本の文章の(ある現象)として考えるとすごくわかりやすい。私は。
その男を見て、その男を非難し批判する(否定する)認識は、
その現象をその男の自性によって成立しているという考え方に囚われているからである、といえる。
その現象は実体が「無い」のに、在るかのごとく、否定している。
「無い」ものは否定も肯定も出来ないのだから、
この場合、否定という認識は間違った認識といえる、ということなのだと思う。
その男を見て、これはなんだろう?何のためにこうしているのだろう?という思い(否定でも肯定でもない)は、
その現象が“なんであるか見えない”という認識かと思う。
それが何なのか見えないから、(これはなんだろう?)が起こるので。
“正しい認識が対象物を見出さなかったなら、
それが「ない」という定義であるとされています”という文章があるが、
その表現流に言うと、
対象を見出さなかったという認識の対象であるその男の現象は「ない」ということ。
この例の(これはなんだろう?)という認識は正しい認識といえると思う。
・・・続きます。
その中の「空の本質」という章には、
「仏教では、ある現象が存在するのか、しないのかということを
どのように判断しているかというと、
正しい認識が対象物を見たなら、それが「ある」という定義であり、
正しい認識が対象物を見出さなかったなら、
それが「ない」という定義であるとされています。
これを理由に仏教では正しい認識を持つ心が大変重要だとされているのです。
対象物が存在するのか、しないのかは正しい認識を持つ心だけが決められるのです。」
・・・という文章がある。
これを読んで思い出してしまうのは、
以前にこのブログで何度も登場してもらって例題にしてる、
昼日中、井の頭公園でズボンから性器を出している男という現象のことだ。
それをこの本の文章の(ある現象)として考えるとすごくわかりやすい。私は。
その男を見て、その男を非難し批判する(否定する)認識は、
その現象をその男の自性によって成立しているという考え方に囚われているからである、といえる。
その現象は実体が「無い」のに、在るかのごとく、否定している。
「無い」ものは否定も肯定も出来ないのだから、
この場合、否定という認識は間違った認識といえる、ということなのだと思う。
その男を見て、これはなんだろう?何のためにこうしているのだろう?という思い(否定でも肯定でもない)は、
その現象が“なんであるか見えない”という認識かと思う。
それが何なのか見えないから、(これはなんだろう?)が起こるので。
“正しい認識が対象物を見出さなかったなら、
それが「ない」という定義であるとされています”という文章があるが、
その表現流に言うと、
対象を見出さなかったという認識の対象であるその男の現象は「ない」ということ。
この例の(これはなんだろう?)という認識は正しい認識といえると思う。
・・・続きます。