まだ途中なんだけど、「働かないアリに意義がある」という本を読んでる。
進化生物学者である長谷川英祐さんというひとが書いたもの。
面白く読んでる。
アリや蜂はコロニーと呼ばれる集団をつくる「真社会性生物」という生物だそう。
アリや蜂の社会には上司がいないし、全体への情報伝達もないのに、
全体がうまく運営されるのは何故か?というのがあって、
ここのところはとても興味深かった。
卵の世話、食糧の調達、敵の成敗、住居の修復やら新築、なんかが、
コロニー全員での情報の共有もないのに全体的にスムースに運ぶ。
虫の社会は、仕事が生じた時にコロニーの部分部分が局所的に反応して処理してしまう、というスタイル。
働かないアリばかり集めても、そのうちの何割かは働き出すとか、
働くアリばかり集めてもそのうちの何割かは働かなくなるとか、
そういう話は最近結構知られているけど、
この働かないアリというのは働かないのではなく、働けないということのようだ。
出番が無いというふうに受け取ってもよさそうだ。
反応閾値(はんのういきち)という言葉がそれを云っている。
これは「仕事に対する腰の軽さの個体差」で、
人で云うと、人にはきれい好きな人とそうでもない人がいて、
部屋がどのくらい散らかると掃除を始めるかが個人によって違う、
そういうことを云うよう。
きれい好きな人は「汚れ」に対する反応閾値が低く、
散らかっていても平気な人は反応閾値が高いといえる。
ミツバチでは蜜にどれくらいの糖が溶けていればそれを吸うかとか、
巣の中がどれくらいの温度になると温度を下げるための羽ばたきを開始するかというような、
仕事に対する反応閾値がワーカーごと(個別)に違っているらしい。
反応しやすさに個体差があるらしい。
反応閾値に個体差があると、一部の固体は小さな刺激でもすぐに仕事に取り掛かる。
例えば、敏感な固体は幼虫が少し空腹になった様子を察知して、
すぐに餌を与える。
幼虫たちはたくさんいるので、他の幼虫も空腹になった場合、
敏感な蜂たちが懸命に働いても手が足りなくなる、すると、
一部の幼虫はさらに空腹になり、早く餌をくれ!とむずかり出す。
つまり幼虫の出す「餌をくれ」という刺激は段々大きくなり、
それが今まで幼虫に見向きもしなかった蜂たちのうち、
それほど敏感ではない働き蜂も幼虫に餌を与え始める。
それでも手が足りなければ、幼虫の出す刺激はさらに大きくなり、
最も鈍感な蜂たちまで餌をやり始める。
幼虫が満腹になってくると敏感な蜂たちだけでも手が足りるようになるために、
鈍感な蜂から順に仕事をやめて、段々と働き手は減っていく。
やがて全部の幼虫が満腹すると、「餌をくれ」という刺激はなくなって、
どの蜂も幼虫に餌を与えなくなる。
こんなふうに反応閾値に個体差があると、必要な仕事に必要な数のワーカーを臨機応変に動員することが出来る。
このメリットが司令官を持つことが出来ない社会性昆虫たちのコロニーに
“個性”が存在する理由ではないかとする仮説が「反応閾値モデル」だそう。
自分の反応閾値より大きな刺激を出す仕事だけを処理していれば、
コロニーが必要とする全部の仕事処理が自動的に進んでいく。
この刺激に対してはこう云う反応閾値、あの仕事に対してはこういう反応閾値、
と一匹の蜂にそれぞれの仕事に対するそれぞれの反応閾値があるのだろう。
腰の軽いものから重いものまでまんべんなく蜂がいて、
しかもさぼろうと思っているものはいないという状態になっていれば、
司令塔なきコロニーでも全てがうまいこと運営される。
著者も「よくできていると思いませんか?」とあった。
「全員の腰が軽くてもダメ、様々な固体が交じり合っていて、始めてうまく点がキモです。」ともあった。
この仮説は本当に興味深い。
反応閾値というのは人間でいっても、個性、持ち味ということだろう。
人間とこういう虫との違いや共通点を考えてみたい。
進化生物学者である長谷川英祐さんというひとが書いたもの。
面白く読んでる。
アリや蜂はコロニーと呼ばれる集団をつくる「真社会性生物」という生物だそう。
アリや蜂の社会には上司がいないし、全体への情報伝達もないのに、
全体がうまく運営されるのは何故か?というのがあって、
ここのところはとても興味深かった。
卵の世話、食糧の調達、敵の成敗、住居の修復やら新築、なんかが、
コロニー全員での情報の共有もないのに全体的にスムースに運ぶ。
虫の社会は、仕事が生じた時にコロニーの部分部分が局所的に反応して処理してしまう、というスタイル。
働かないアリばかり集めても、そのうちの何割かは働き出すとか、
働くアリばかり集めてもそのうちの何割かは働かなくなるとか、
そういう話は最近結構知られているけど、
この働かないアリというのは働かないのではなく、働けないということのようだ。
出番が無いというふうに受け取ってもよさそうだ。
反応閾値(はんのういきち)という言葉がそれを云っている。
これは「仕事に対する腰の軽さの個体差」で、
人で云うと、人にはきれい好きな人とそうでもない人がいて、
部屋がどのくらい散らかると掃除を始めるかが個人によって違う、
そういうことを云うよう。
きれい好きな人は「汚れ」に対する反応閾値が低く、
散らかっていても平気な人は反応閾値が高いといえる。
ミツバチでは蜜にどれくらいの糖が溶けていればそれを吸うかとか、
巣の中がどれくらいの温度になると温度を下げるための羽ばたきを開始するかというような、
仕事に対する反応閾値がワーカーごと(個別)に違っているらしい。
反応しやすさに個体差があるらしい。
反応閾値に個体差があると、一部の固体は小さな刺激でもすぐに仕事に取り掛かる。
例えば、敏感な固体は幼虫が少し空腹になった様子を察知して、
すぐに餌を与える。
幼虫たちはたくさんいるので、他の幼虫も空腹になった場合、
敏感な蜂たちが懸命に働いても手が足りなくなる、すると、
一部の幼虫はさらに空腹になり、早く餌をくれ!とむずかり出す。
つまり幼虫の出す「餌をくれ」という刺激は段々大きくなり、
それが今まで幼虫に見向きもしなかった蜂たちのうち、
それほど敏感ではない働き蜂も幼虫に餌を与え始める。
それでも手が足りなければ、幼虫の出す刺激はさらに大きくなり、
最も鈍感な蜂たちまで餌をやり始める。
幼虫が満腹になってくると敏感な蜂たちだけでも手が足りるようになるために、
鈍感な蜂から順に仕事をやめて、段々と働き手は減っていく。
やがて全部の幼虫が満腹すると、「餌をくれ」という刺激はなくなって、
どの蜂も幼虫に餌を与えなくなる。
こんなふうに反応閾値に個体差があると、必要な仕事に必要な数のワーカーを臨機応変に動員することが出来る。
このメリットが司令官を持つことが出来ない社会性昆虫たちのコロニーに
“個性”が存在する理由ではないかとする仮説が「反応閾値モデル」だそう。
自分の反応閾値より大きな刺激を出す仕事だけを処理していれば、
コロニーが必要とする全部の仕事処理が自動的に進んでいく。
この刺激に対してはこう云う反応閾値、あの仕事に対してはこういう反応閾値、
と一匹の蜂にそれぞれの仕事に対するそれぞれの反応閾値があるのだろう。
腰の軽いものから重いものまでまんべんなく蜂がいて、
しかもさぼろうと思っているものはいないという状態になっていれば、
司令塔なきコロニーでも全てがうまいこと運営される。
著者も「よくできていると思いませんか?」とあった。
「全員の腰が軽くてもダメ、様々な固体が交じり合っていて、始めてうまく点がキモです。」ともあった。
この仮説は本当に興味深い。
反応閾値というのは人間でいっても、個性、持ち味ということだろう。
人間とこういう虫との違いや共通点を考えてみたい。