ホワイトシェパード・アリエスの日々 ≪一雲日記≫

いつまでもどこまでも一緒に歩こう!

言葉の話 その2

2019-06-08 | 11~12歳
さて、伝えたいことが心に膨れ上がったら、ふつう相手の言語を学ぶだろう。ところがアリエスに対して、私は迂闊にもそうはしなかった。読み取ることをアリエスに丸投げして、自分の言語で押したのだ。

今やイヌのボディランゲージやシグナルの理解は常識だろうが、アリエスがやってきた当時の私は、どんどん大きくなっていくアリエスを前に焦り、急いでヒト社会の決まりごとを教えるーーしつけーーことに必死で、そんなことは露ほども考えつかなかった。生後4か月で来て、世に言われる臨界期の期限はすぐ切れる。

アリエスの戸惑いをよそに右往左往し試行錯誤し勝手に怒ったり自暴自棄になったりし、挙句に思い描いていた「しつけ」なるものはうまくはいかなかった。なんで通じないのだろう、わかってもらえないのだろう、これはあなたに必要なことなのに。

そんな中でも、アリエスは着実にヒトの言語を知り覚え、幼い顔に考え深げな表情を浮かべながら、なんとか私の言うような振る舞いをしようとしていた。はたして、私の“言語”は一方通行で、伝えるからには受け取ることも等量の重要性を持つ、という事実を完全に看過した。演説だけで生涯を過ごせる人はいない。教えることは教わることだ。その頃の私は、まったくもって訳のわからない怪獣のようだったことだろう。

アリエスにとって語るべきことは何か。アリエスが何を感じているか。臨界期とかいうものがだいぶ過ぎ、あきらめモードで我に返った時、それを聞きたいと切望するようになった。イヌが自らをどんな方法で表現するのか、人に会いに行って尋ねたり書籍やネットを調べたり、それなりに努力した。でも、それを微に入り細を穿ち教えてくれるのは、他ならぬアリエスだった。

ヒトのような言語体系ではないけれども、アリエスの使う言葉は陰影に富み表現ゆたかで、その繊細なことには驚くほかなかった。教科書のようでなくとも、この家で家族になる間、私たちの中でだけ通じ合う表現も多々生まれただろうと思う。アリエスが私に対して言いたいことはほとんどが、家族を大切に思っていていつも一緒にいたくて、今日この今も大好きだ、ということだった。

それは犬について書くのにあまりにも月並みで、考察を欠いているかもしれない。結局そこかよ、という。言語がヒトと違うからイヌは複雑なことは考えないとか、心理的にも単純であるとか、確認できないことについて見くびった想像をするつもりなど毛頭なく、むしろその知性のありかたには畏敬の念さえ抱いている。しかしアリエスが全身で伝えてくるのは、ただそんなあたたかい喜び、つつましい幸福だった。

日本語をひと言も話したことがないアリエスと、犬語を理解も表現もできなかった私。なのにそこに「会話」は成立し意志の疎通をおこなうことができる。互いをいたわり思いやり、安堵して生活することができる。言語の本質は言葉にもともと備わった意味ではなく、意味を与える我々にある・・・

素振り、しぐさ、表情、あらゆる動き、声の調子、単語。リズム、トーン、雰囲気。それは「言語」ではなくとも、充分に「言葉」なのだったろう。物語でも語られた“言葉の本質”とその奇跡を、私は日々体験していたことになる。それからの日常は、それまでとはまったく違ったものになったことは言うまでもない。

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