ホワイトシェパード・アリエスの日々 ≪一雲日記≫

いつまでもどこまでも一緒に歩こう!

油断大敵だな

2020-09-04 | 12〜13歳
藤井聡太氏がタイトル獲りに邁進していた頃、ネットでも特集から関連小話から様々な話が語られていた。ある日小さなインタビュー記事で「将棋以外の息抜きはありますか?」と問われ、藤井氏「詰将棋と将棋観戦です」(だったか?そんな感じの内容)と回答。
げー天才ってすげぇ。どんなことを思いながら生きてんのかな…。そういえば昔、スペインの美術館でピカソのデッサン画見たっけな。同じ対象物をとんでもない数、描いてたな…。天才ってそういうもんかな…。

仕事の合間にちょっと微笑ましくクスリとできるかねと思って、不在のアリ男のPCに藤井氏の話を送ってみた。
→ 返信。
“「アリ子さんの趣味は何ですか?」
「アリエスのうんちとかおならとか…」
と同じ意味だと思う。すべてが将棋なんだろうね。“

やべ。天才のこと分かっちゃったよ。それになんか不意打ちで、ぼろぼろ涙が出ましたよ。そうだったな、アリエスはそうなんだよな。アリエスをそんなふうに大事にしていたと、私は思われていたんだな。感動とかこみあげてくるようなとは違う、心の表面を挨拶がわりにポンと叩くような、不思議な感覚でしたな。

9年の時

2020-03-13 | 12〜13歳
大震災から9年。命が直接に脅かされたわけではない自分にとってすら、重い経験だった。まして亡くなられた方はもとより、切迫した生命の危機に遭い、大事な存在を失ったり、長い間その体さえも戻らなかったり、故郷を放棄せざるを得なくなったり、そして生活のひとつひとつを取り戻してゆく気の遠くなるような努力、それでも埋め合わせることのできぬ大きな喪失、現在も続く苦境、なんと過酷か。

毎年記憶を新たに、祈りを新たに迎えてきたこの季節を、別の厄災が襲っている。

自分がこの感染症のパンデミックを覚悟したのは、1月のことだった。さかんに武漢の報道が始まって、心配から受診する人も増え出した。例年通りインフルエンザなどで熱や咳が出る人も多いし、待合室の椅子が足りない混雑も当たり前な時期だ。妊婦さんがいる。乳児を抱き、動きまわる子を叱る姿がある。杖をついて少しずつ廊下を進んでくる年配者が見える。心底肝が冷えて、震えがきた。震撼ってこのことか。これから春節もくる。終わったと思った。

それからは自分達なりに懸命にやってきたが、勤務先ではいま、心配から来院する人は激減している。医療機関こそ危険という考えもあるだろうが、現状では軽症で治癒する可能性のほうが高い、特効薬が未だ無い状況で検査をしまくると(軽症者で病床が埋まり)重症者や他の疾患罹患者が収容できずいわゆる医療崩壊のリスクが大きくなる、などの理解が共有されているのかなとも思う。確率が低くても死に至るかもしれない未知のものが怖くないはずはなく、できるなら陰性と確認したいと願うのは当然だ。守りたいものがあり、自分のためだけでない恐れを、皆持っている。

だから、その自制的な態度に心打たれる医療従事者は、少なくないのではないだろうか。重症者に比重をかけることに理解を示す。マスクでウイルスを防ぐことはできないことなど承知のうえだが、むしろうつしてしまうことを恐れてマスクをしたいという思考。そういった他者への想像力と共感は、我々の使命を再確認させる力だなと思う。困難な水際対策と先行する他国の感染者数の伸び、終わりの見えない緊張もあって、無理なんじゃないかと挫けそうになることもあった。けれど、しかたないよと諦める権利があるのは、自分にできるすべてをやった人だけだと思い至ってからは、それなりに腹をくくれた。あのダイヤモンドプリンセス。現場はどんなに必死だったろう。病院に飛び込んできたい恐怖をこらえ、医療に協力してくれる人々。少しでも安堵して生活してもらうには、どんな診療であるべきか。勝手に終わったと覚悟なんかした自分はバカ以外の何と呼べるのか分からん。

悪化するまでは家で寝ていましょうという現状は、大きな不安を伴うし、受診すべき時を逃す恐れもある。初診か2回目くらいの時点で、経過が長いなど診療者が必要と判断した場合、独居、不安感が強い、などの際に状態に応じて連絡日を決め、電話によるフォローアップをおこなっているが、これは相互に良い方法だとこれまでのところ感じている。孤独に閉じ込められているのではないと分かっていてもらいたいし、電話を通じて家庭の状況を把握しやすく、ゾーニングなどの感染対応をより具体的に話すこともできる。軽症者に対するオンライン診療ができるようになりそうだが、未診断の場合にも有効なのではないかなと思う。より高次の医療機関を守り負担を減らす必要からも。

アリエスの日記に書くべきことなのか、それも重大な事柄に関する寝言みたいな感想など、だいぶ迷ったのだったが、上に挙げたことのほかに自分の心を支えてくれているのがアリエスの姿だったので、記しておくことにした。何かに命かけると決意して挑むのも大事業だが、日々ひとつ事をして、いつか自分の生活や人生以外のものを背負って歩き続けることもあって、それを仕事と呼ぶのだと、そこに苦闘も喜びもあるのだと、私の執着を背負って生きたアリエスの笑顔とともに繰り返し思われてならない。今もそうして働いてくれている人々のおかげで、なんとか国が持ちこたえているのだろう。自分もわずかでも役に立つことがあるとしたら幸いだ。









2020-01-28 | 12〜13歳
昔は雨に濡れるのが嫌いで、周囲が気にせず歩くような小雨でも、速攻で傘をさしていたものだった。ところがアリエスがきてみると、そうもいかなくなった。自分だけ傘の下というのも嫌だったし、突然走り出したりする場面に対応できやしない。しかたなく。そう、雨は私にとっていいものではなかった。

けれども濡れそぼちながら共に歩いていると、生きものにとって雨を受けるとはどういうことか、雨の作る景色はどんなものか、ホワイトノイズの静かな音の驚き、そんなものが直截に実感された。なにより、濡れた毛のアリエスの造作がとてもかわいく、時々顔を見合わせては笑いがこみ上げて、雨降りに喜びがあると知る。

アリエスはこんなふうにひとつひとつ、私の世界を変えたのだ。雨は、そのことを思い出させる。傘がなくても余裕な自分。アリエス、今日もあなたの雨が降る。

最初で最後

2020-01-12 | 12〜13歳

赤っぽい花がこんなに心浮き立つものだと教えたシクラメン。ひかえめなフリルも素直に花開く様もいいなと思う

私は庭と室内で植物たちとつきあっているが、育て方を学んだり彼らの美しさすごさを知ったりするうち、いろいろ集めたくなってくる。場所にも家人の忍耐にも限界があるわけで、ネットの画像を睨みながら、ああでもないこうでもないと頭が煮詰まる。コレクター気質を持ち合わせているわけではないけど、それでもいくつかは手元に集まる。この冬は、シクラメンだったな。物欲、恐るべし。

けれどそれを嘘のように消し去る、決定的なやつに出会うことがある。私はそういうのを〝とどめのひと鉢〟と呼んでいるが、別に大人気で入手困難とか限定品とかでないし、賞を取ったかどうかもあまり関係ない。何もかもが全部それでよく、まるでピースがぴたりとはまるような気がするひと鉢。

そう思えばアリエスは、私にとってまさしくとどめの存在ということだな。最初にして最後、アリエスですべて充足し完結。今また改めて出会うことができるなら、絶対にアリエス。あいつ、すごいんだな。



守ること

2020-01-06 | 12〜13歳
生まれ変わって、ふたたび姿を見せてほしい。それは雲をつかむような願いだが、抜き難く切実な感情でもある。この地上の誰ひとり死後に起こることの真実を語れないとなると、いろんな可能性を考えておかねばならない。

『また生を受けることができるとして、では別の外見だったら。前と違う生物だったら。』

アリエスの庭を手入れする時、親しげに寄ってくる蝶は。目を細めてくつろいでいるかのように思えてしまう、リビング窓がお気に入りのカマキリは。アリエスの白耳のようなシクラメンは。道で行き違う、ヨチヨチ歩きの子犬は。この優しい日差しは。遠慮がちに触れるような風は。あなたは、アリエスではないですか?

アリエスはどこにもいなくて、どこにでもいる。
私の心の見るところ、聞くところ、思い浮かべるところ、どこにでも。

それが死ぬということだとしたら、どこかの宗教か何かで言いそうなことだが、万象にアリエスは溶け込んだのだろうか。ヒトにも、ほかの生きとし生けるものにも。

ならば、大切な存在に手が届かなくなった私は、アリエスを大切に思うように人を思い、労わらねばならないのではないか。変な方向のこじつけかと我に返って、だけど、そうであるべき使命感とか思い込みなのではない。アリエスとの出会いに、アリエスの人生に、アリエスのくれたものすべてに、感謝しかあり得ず、それをアリエスに見えるように表現して生きたいと思うのだ。それがこれからもアリエスを守ること、墓標を守ることだと、最近思う。