ホワイトシェパード・アリエスの日々 ≪一雲日記≫

いつまでもどこまでも一緒に歩こう!

水とか空気とかレンズとか?

2019-04-25 | 11~12歳
アリエスが私に教えたことのひとつに、「間接的な理解」というものがあります。家の外に出れば無意識にそうしている・・・他の人について知る時、複数の人々とのやりとりや様子を客観的に見て、その人についての印象を持ったり理解したりすることは普通です。でも家族については近すぎて、私はあまり考えたことがありませんでした。

けれどもそこにアリエスがいて、アリエスがそれぞれと絆を深めてゆくのを見ながら、私は家族について多角的に知ることになりました。直接伝えるのが照れくさかったり、お互いにはそう面と向かっては言えないこと、同じ出来事でもそんなふうに感じるのかという驚き。アリエスが橋渡しをし、虫メガネや双眼鏡を通して新たな観点を与えられるかのようでした。

自分が親にどのように命かけて育ててもらったか。言葉少ない父ちゃんの、家族を思う気持ちがどれほどか。時には喧嘩し腹を立て、ぶつかることもある家族が、どんな優しさを心に隠しているかということ。アリエスというフィルターがみんな伝えてくれました。

私はアリエスのいないところでアリエスについて語るという、新たな経験をしているわけですが、代名詞を使わないようにしているのに自分で気づいています。以前は“彼”とか“ヤツ”とか書いていたところ、繰り返しアリエスアリエスと書いています。何度でも心で呼びたくて。こうしてエピソードを思い起こす時も、キーボードで名前を打ち込む時も、大きな声で叫びたいくらい、心はアリエスで満ちています。アリエスは家族の間を埋めて、私の心を埋めて、本当に大変なことだなあ。










春はきたけど

2019-04-24 | 11~12歳
アリエスがいない淋しさには少しずつ慣れてきたけど、アリエスがいないこと自体には、まだ慣れない。うっかりすると、心に開いた穴に落ちる。突然アリエスの不在を切実に感じ、ハッとする瞬間はやっぱり恐怖でしかない。あいもかわらず帰宅を焦り、アリエスに話しかけ、部屋を出る時は細くドアを開けておく。何をするにも、アリエスの穏やかに見守るような目を確認しながら生活していたから、アリエスの伏せる高さのあたりに、今でもそれを探す。

当然だが実際に一緒にいる自分を外から見たことがないので、アリエスにどのように接していたかがふとわからなくなることがある。今こんなに頭をなでてギュッとしてやりたいど、それができる贅沢な身分だった自分は、どうしていたのだろう。家族に訊くと、アリエスの頭が茶色くなるまでなでていたなどと言われる。通りがかりにかわいがり、戻ってきてまたなでる。1日中そんなふうだった。みたいだ。

アリエスと暮らしていると、人と相対する時も、相手は満たされていると無意識に考えていたと思う。自分がそうであったから。けれど今は、何らかの大きな欠落による不完全さをひそかに持っているのではないかと、少し恐れる気持ちがある。自分が何より大切にしていたものを失ってやっと、当然あるべき他者への洞察らしきものを感じるのかもしれない。大変な失くしものをして、そのまま生きていかねばならない、人生ってそうなのかという限りない共感のようなもの。

こんな愚痴みたいな日記が何になると思う時もあるけれど、何になるのかを自分でわかりたいという思いがあり、場を借りて続けている。悲しみを振り払ったり、新たな何かを始めることでは自分は再起できないと知っている。心にあることを取り出しては考え、1段の階段のようにして、少しずつ穴の上に昇るしかないのだ。アリエスに会った意味。アリエスがいた意味。アリエスが教えたこと。これからもアリエスのために、私ができること。それは何か。日々それを考えながらここに書き出していくことは、私にできる数少ない前進と信じつつ。


アリエスはここで過ごしていました。いなくなってからの日差しの美しさは、本当に泣かずにはいられないものでした。私にとっては今でも動悸の出る写真。









生まれ変わりますか その3

2019-04-10 | 11~12歳
アリエスの帰還を待つ我が家では、これまでとあまり変わらない暮らしをしています。散歩の代わりに走りに行き、ごはんも3食、アリエスに出します。お茶の時も皆で同じものを。お風呂が得意でないアリエスだったけど、母ちゃんが入ると必ずパトロールに来ていたので、ペンダントも一緒に入浴。今までは留守番だった勤務も、同様にペンダントで一緒に出かけます。もちろん夜は、アリエスの棚のそばに布団を敷く。

死は穢れではなく、いつかふと自分の後ろにも立っている、なつかしい友人のようなもの。「なつかしい友人」と書いていたのはどこかの作家ですが、自分のことに限って言えば、本当にそんなものだと思います。

「友人」が連れ出して姿を消しても、魂はまた戻ってくれるだろうか。それとも別の世界に生まれ直すのだろうか。だとすると、私たちが心から喜んで迎えたアリエスは、その前に誰かの涙でこの世界に送り出されてきたのだろうか。他所へではなく、どうかここに、帰ってはくれないだろうか。いや、天国と呼ばれる場所のほうが、ここよりも幸せなのか。もし幸せなら、母ちゃんはあなたが帰らないことを受け入れられるだろうか。

あなたはどこにいて、どうしたら再会できるのか。

私があの世へ行けば、と確約されているならそれもいい。でも確かでないからジタバタします。「自分が死んだら、天国でなくていいから犬のいるところに行きたい」と、愛犬に会うことを願った人がいるそうですが、まったく同じ気持ちです。

スピリチュアルな答えにバランスを取る形で、ガチガチの量子力学や宇宙論の本を読んだと書きましたが、誰の意志の反映でもない、現象を現象として冷徹に調べて提出される謎にこそ、なぜか救いがありました。優しげな声でなだめられるのではない厳しさが目の前に広げてくれる世界に、むしろ神性を見る気がしました。

私たちが普段存在している時間も空間も、この地球上で生まれ育った生命体としての私たちの認識できる範囲までのことであり、理論上起こっていることはその認知を超えているかもしれない。SFやオカルトの話かと思っていたパラレルワールドや複数の宇宙、3次元ではない多次元の世界、シミュレーション世界の中での仮想現実の可能性まで想定されているのだそうです。

アリエスが生きている世界があるかもしれない。死とは、そっと次元を踏み越えただけのことかもしれない。空想の世界との接点を、科学が持とうとしている可能性があり、それを超優秀な頭脳の人たちが日夜考え計算し観測し、真理をつかみだそうとしているのです。むろん現時点で生物の再生は否定されていますけど、地球外の生命の持つ数学であったら、宇宙はまた違う姿に説明されるのかもしれない。謎は可能性を生み、私の救いを生んでくれました。

アリエスの時もそうだし人の闘病においても、神の存在を感じる瞬間というのは経験しました。庭仕事をしていても、驚くようなことはいつも起こっています。分子生物学の研究でも、精妙な仕掛けに仰天しっぱなしと言っても大げさではありません。

宗教も、科学とは別の点で凄まじい。後世の弟子やなんかが書き足したり少し変えたりしたとしても、過去に存在した傑出する個人の思想が、何千年も多くの人に影響を与え、ある場合には生活そのものになる。それだけの年月を大きな修正を加えずに生き抜くというのは、やはり壮大で根源的な力があるのだろうと思います。

科学なり宗教なり、何にどんな神の影を見るのかということは人によって違うけれども、可能性に満ちた世界に生きていると知ることは、穴に落ちそうになる自分を掬い取ってくれるように感じています。

生まれ変わりますか その2

2019-04-03 | 11~12歳
アリエスが旅立ってから、現実的に生きていくためには、程度はあれどその事実を受け入れねばなりませんでした。アリエスは去った。姿も見えず、そこは涙を飲んで認めるしかない。けれども、アリエスが夢でそう話したように、もう一度帰ってくるということはないだろうか。この今はそれまでの、しばしの空白。

正直、そこに線を引くことで、なんとか過ごしていけています。本気で信じるかと訊かれると、そう信じたいとしか言えず、そんなことで大丈夫かといろいろな意味で自分が心配になります。つまり、そんな不信心ではかなわない願いになるのではないか、それに、このままでは壷ぐらい買いそうだぞ・・・

実際スピリチュアル関係の本を読んでみましたけれども、共に生きてきたお互い以上のことを、特殊な感性のもとに気づき伝えることができる、という内容にすごくがっかりしてしまうのです。そして、無意識にバランスを取ろうとするのかもしれませんが、存在の認識や最先端の宇宙論(アリエスがいる場所はいったいどこなのか、わからないので)などについて、専門家が書いた本もたくさん読むようになりました。

それと、天国を信じたり輪廻転生を想定したりする宗教についても考えたりしました。現在をどんな世界ととらえ、どんなふうに人生を送り、死してどこへゆくのか。長い過去から人々がすがり、救われ、戦った信仰の歴史。

私は、アリエスに出会えたことや一緒に過ごす幸せを神に感謝しお寺にお礼を言い、そして闘病の時には死神や時間の神と死闘したような気持ちでした。最後には生命をつかさどる神がアリエスを連れてゆき、仏教風に荼毘に付しておいて極楽でなく天国を思うのだけれど、無宗教的にアリエスを供養しつつ、再生を待っている。各宗教の枠組みをおおいに外れて、一貫性なくぐちゃぐちゃです。自分の中では、呼び名は何でもいいがいわゆる「神」はなにも人型でなく、そのひとりの意志の通りに世界が展開するのでもない。よく薄く笑いながら勧誘にやってくる布教活動は違和感があり、「神」はそれぞれの心の中にあって、他人が教えてあげたり変えようとしたりするものでない、・・・などと思っています。

そんな中で意外にも胸に迫る思いがしたのは、宇宙物理学の取り組んでいる謎についてでした。「すべてを動かす超越した人間がひとりいて、そこを天国と言うんだよ」という内容より、科学者の考えていることははるかにぶっ飛んでいます。もちろん理論的にも実験的にも努力して証明を積み重ねるわけですが、その世界観は、私には想像すら及ばない次元まで進んでいました。