ホワイトシェパード・アリエスの日々 ≪一雲日記≫

いつまでもどこまでも一緒に歩こう!

聞こえているかな

2019-11-24 | 11~12歳
アリエスは昨年11月に病を得た。朝晩の沁み入るような寒さの始まりが、それを思い出させる。

1年をどのように過ごしてきたのか、考えようとすると驚くほどに思い出せない。この日記を書いているから、読めばああそうかと気づくのだけれど。つらかったなと、ぽつんと思う。これからも多分そうなのだろう。母ちゃんはアリエスの見えない1年を、なんとか生きたよ。ここにこうして言葉を書くことは、どれもただ、あなたに会いたいと言っているにすぎない。わかってるよ、きっとね。

アリエスの死は私達をぶちのめしたが、それを救ったのはまた、アリエスの思い出だ。アリエスのかわいさは今も同じで、アリエスの優しさは今も変わらずに優しい。テレビをつけっ放しにしなくても寝られるようになり、少しの楽しみをアリエスに報告できるようにもなった。家事や庭仕事はやっぱりアリエスと一緒にしていたようにしている。心の底に絶えず流れる、何かが間違ったまま進んでいる感覚と、突然襲ってくる悲嘆については、いたしかたなしと自分を許している。

すべての生命を分かつ死を憎んでも、あれほど恐怖したアリエスの闘病の日々を疎む気にならないことは、我ながら意外だ。あの日々も、アリエスの生きた時間であったからだろうと思う。笑い合って過ごした時と同じ重さで、大切なのだ。アリエス、母ちゃん達は、待ちくたびれることはない。いつでもここに。



アリエスの友達

2019-11-10 | 11~12歳
家の周辺や庭には、いろいろな鳥がくる。アリエスはよくカラスを見上げていたっけな。スズメは毎朝にぎやかに屋根におり、ムクドリの家族は事件現場を調べる鑑識班のように、整然と並んで地面をつつく。キジバトの夫婦は庭のヤマモモの木に入居希望の様子で、そこからの眺めや動線を確かめていて、本当にヒトが部屋の内覧でもしているかのようで笑ってしまう。前年はモミジの木でヒナがかえった。コロコロと優しげに喉を鳴らす姿を見せない常連もいれば、トンビが高く滑空して、空が雄大だったことを思い出させる。メジロは庭になる実もの狙いだし、誰かが砂浴びした跡もよくある。

先日は植木鉢でウグイスが寝ていて驚いた。草花に順番に水やりをしていたら、葉っぱじゃないものがいる。緑どうしで隠れてるつもりか…。気づかなくてすぐそばまで手を伸ばしていたのに動かないので、ケガでもしてるんじゃないかと心配になる。困った…鉢のまま動物病院に連れていくかな。と思案していたら、つぶらな瞳がひとまわり大きく開いて、今さらびっくりした顔で慌てて飛んでいった。彼は寝ぼけていたのだな。ともあれ、大事なく何よりだった。腐葉土たっぷりで温かい土だから、ついまどろんだのだろう。またおいで、ということで、鉢の配置もまわりの物も動かさないようにしている。早く来ないと枝が伸びちゃうよ。

アリエスの庭に、快適そうにしてくれる生きものがいることがとても嬉しい。疲れてる命、弱って休みたい命、ここへ連れてきて束の間でも安らげるようにしてあげな、アリエス。



うっかりゲキシャされた寝ぼすけくん

冬じたく

2019-11-09 | 11~12歳
気温が下がってきて、アリエスの入居している棚もこれまでの白中心のインテリアでは寒々と見えるようになった。アリエスの後ろのカーテンを、薄手のレースから、ダークな背景に森の動物がいろいろ描かれたやつに変えた。生地の図柄が子供っぽくなくて、探し回った甲斐があった。母ちゃんそろそろミシンに慣れたよ。

それからアリエスを守る白いぬいぐるみ達にも、それぞれに防寒具を進呈。私の冬靴下で、ベストと帽子、マフラーを作って着用させた。アリエス本体とガラスの小壺、犬舎に行った時に博多で買ってきた白犬の置物にはマフラーを編んだ。必要とあらば、敬遠しまくっていた手芸もチャレンジせざるを得ない。自分の柄ではないが、付け焼き刃でも無いよりマシと思って頑張った。

多少変でも、離れた距離で見ればなかなか暖かそうでよい。編み物がおもしろくなっちゃって、父ちゃんにマフラーか何か編んであげると言ったら、怯えた目をしていいよいいよと断る。遠慮はいらないとニコニコしたら、余計追い詰められた表情でマフラーはしない主義だと、重大な政治的立場でも開陳するかのように答弁する。なんだよーーと思いつつ、今度はアリ子母に何がいいかと尋ねると、かゆいから要らないと瞬殺された。いや、それはチクチクしない毛糸を使えばいいことで…と思ったが全然そんな余地は与えられなかった。

アリエス、それ、かゆいかい?



アリエスは、御簾のむこうからちろっとね…ポンポン付きのマフラーをしてますよ〜

白耳花 その2

2019-11-06 | 11~12歳
花や木を買う時、普通は環境に合わせて選ぶが、「日陰でも耐える」「少しくらい水切れしても大丈夫」「小さく育てられる」など、ヒトサイドに都合のよい条件が強調される。イヌなら、ズバリ小さくて愛らしいこと、おとなしいこと、吠えないこと。そしてそこには、「ナリが小さければスペースも運動も少なくてよい」「いろいろ教えなくてもよい」という自動的な解釈がある。だけど、ほんとは太陽を浴びたいし水も多めに飲みたいし、できたらのびのび育ってみたい。大きいやんちゃ坊主に吠えたい時だって、それはあるだろう。草花も犬も。人も。

他者と共生するために規律もモラルも遠慮も気遣いも必要だが、およそ「育てる」という立場に立った場合、それらを口実に相手の性質を抑制してはならないと、自省をこめて思う。それは自分が楽をする甘えだと、私はよく知っている。「〜でも」「〜しても」何とかなってくれる生き物も、本当はこう暮らしたいという本来的な生き方を一緒に暮らしながら探すこと、このへんでやってみようよと着地点を見つけていくことは、やっぱりひとつの喜びではないかなと思う。

ところで、植木でも犬でも、はじめにこちらが「選ぶ」という事態が生じることは多い。私がシクラメンを選び取ったように。それこそ条件の「良い」または「合う」ものを選択するけど、本当に保護や世話が必要なのはおそらく選ばれなかったほうだ、という現実もまたあって、選択という行為に後ろめたさを覚えることが少なくない。見捨てることと感じて、放っておけなくなる人もあるだろう。たとえばペットにおけるパピーミルのように、その心理というか人の真心を衝くやり方が確信的である場合、憎まずにはいられない。

白耳花 その1

2019-11-04 | 11~12歳
昨年まで、ガーデンシクラメンを育てていた。原種に近く、外で夏越しし寒さにも耐える。鉢植えなのにほぼ放置で、けれどちゃんと自分で休眠したり芽を出したりしていた。そのすごさに気づかぬまま、私は「お〜いつのまにか葉っぱが茂っとる」などと驚いたり、花が咲いたと無邪気に喜んだりしていた。

ところが。今年は待てど暮らせど葉が出てこない。天候がおかしかったから遅いのだと思いたいが、もうどこでも開花した株が売られている。うちの子は、どうしたんだろう。

わずかに紫がかる深い赤で、白で縁取りされた花弁。普通のシクラメンを思い浮かればあまりにも小さなミニチュアのようなのに、いっちょまえに同じ形なのが(こっちが原種寄りだけど)本当にかわいいものだ。花びらの白い縁や形がアリエスの耳のよう。それが見られないとなると途端に惜しまれてならず、アリエスの姿と共に眼前から消えたようにも感じてしまい、変に焦る気持ちになった。立ち寄ったホームセンターで何となく見て回るも、うちのがいいしピンともこない。帰ろうかなとしていた時、真っ白なガーデンシクラメンに目を止めた。

市場には数多くの園芸種が出回り、育種家がいて登録商標がある。気を引くような名前が付けられ、大手や有名園芸店から出荷したものは誇らしげにタグがついていたりもする。その時もそういったのが大量に並べられていたのだが、か細かったり(売り場での世話の問題もあるかもしれないが)元気がなかったり。最小の投資で最大の利益を生むためには、土は購入されるまでもてばいい、鉢もできるだけ小さくする。まあそんなもんだろう。

ところがその一画の数鉢だけ、株の様子が違うものがあった。ラベルなし、名前もないし出荷元も分からない量産品だが、葉も茎も、何だかみずみずしい。真っ白な花はアリエスを思わずにはいられなかった。それに、違う色にして家のが咲くのも待てばいいかな。

翌日、鉢に植えようと株をポットから出してみれば、生き生きしているのも頷けた。これまでのポット苗では見たこともないような、ふかふかの土に植えられていたのだ。おかげで丈夫な根が回っている。皆が望む大きさに調整するための肥料も乗っかっていない。どこかの真摯な人が、ノーラベルの小さな植物を正直に生かしたのだなと思うと、感動してしまった。その思いを引き継いで、大切に育てよう。