最終回で作者の狙っていたことが全て公開されました。
今週はケイトが乃十阿の実の息子の存在を知ってドイツに行って彼と会うところから始まります。
乃十阿が実は連続殺人犯ではなかったことをケイトは知ります。
実はハリヒメ草という毒草をウォータータンクに入れたのは息子だというのを突き止めました。
これも一枚の写真が証拠だという。
それだけじゃ証拠不十分でしょうに。
乃十阿はこの3歳の息子を庇って殺人犯になったというのです。
自らの学者生命を捨て、殺人犯になったと。
一方乃十阿がその頃付き合っていた人(秋吉久美子)にも子供が出来ました。が、認知しなかった。
30年経ってその娘ケイトが会いに来ても口を閉ざした。
それは殺人犯の娘という汚名を着せたくなかったから。
そういう事実を全部ひっくるめて、ケイトは記者としてこれを記事にします。
すごい葛藤の末に書きます。
そうしてイーストは大々的なスクープとしてこの記事を発表しようとしました。
けれど、寸前で社長から止められます。こういうことはあるんでしょうか?
状況証拠だけでこれを発表するのはまずいという、あったり前の判断のようです。
記者としてギリギリの決断をして記事を書いたケイト。なのに没にされてしまいました。
ケイトは尾高とも話合いをしました。
もう一度やりなおしたいと言う尾高に、ケイトは言います。
「子供を捨てて欲しくない、そういう尾高は嫌いだ」と。
結局ここでもすれ違いでした。尾高はケイトをあきらめました。
しかし尾高の妻は子供を置いて出て行ってしまったのです。
落ち込む尾高でした。
イーストの中では野中が会社に出て来なくなりました。現れたかと思うと退職を願い出ます。
鬱になったみたいです。退職を受理されたはいいけど野中は見苦しく騒いで「将来大作家になるからな、見てろ」と叫びます。
乃十阿という人間は、子供を守り自分の人生をあきらめていた。
殺人犯ではなかったその生き方にケイトは安堵します。
ケイトは自分も他人の家庭を壊すのは望みませんでした。だから尾高との復縁を拒んだのです。
「人として守るべきもの」はなにか、「好きな人に家庭があった時にどう生きるか」が二重三重の立場から語られます。
そうしてケイトは父親を誇りに思い、自分の生き方の糧にするのでした。
このような深遠な内容でした。文学的と言っていいでしょう。
でも所々いい加減です。息子が毒草を入れたとしても、それは過失だったのでは?
父親が損害賠償を負う人生を選んだ方がまだましだったのでは。
嘘をついてでも全ての責任を負うという潔さを書きたかったのでしょうが、今の時代それは通用しないでしょう。
乃十阿がヒロイズムに酔ってる気がします。
尾高は何だかへそ曲がりです。
最後にケイトが「じゃあ一緒に子供を育てよう」と言ったら「そういうケイトは好きじゃない」と言います。
この二人、理想が強くて合わないのかしらね。いつもすれ違っています。
舞台が週刊誌の編集室なのも、スクープ狙いで活気づいて忙しくしてますが、何かあんまり魅力に感じません。
やっぱり古臭いんだよね。元殺人犯の真実がそんなに一般の人の興味を引くんだろうか。
その娘の告白記事に、世間がどれだけ興味持つのか。
野中は面白い人物でしたが、新しい彼女にも袖にされ、ケイトのことを他のメディアにリークしたのも皆に謝ったり、最後は「おまえらが跪く大作家になってやる」と負け惜しみを叫ぶのもステレオタイプのつまらん奴でした。
野中が何年か後に流行作家になったなんでどうでもいいことです。
むしろ作者がいつまでもそういう考えを持っているのが残念です。
作家が社会の上位にいるかのような。
また「記者は社会悪を追求する稀少な存在」みたいな雰囲気も嫌です。
世の中は広いんだから、もっと違った世界からこういうテーマを扱ってもらいたいです。明るく大らかに。
そんなに悲壮にならなくても生きていける世界はたくさんある筈です。
いかん、また私の辛辣さが出てしまった。
しかし充分に楽しめました。役者の熱演も感じられました。なにとぞご容赦ください。