見終えてしみじみとした充足感を感じました。
1960年代から1990年にかけて出す物が次々にヒットチャート入りとなり、日本の歌謡史の上に輝いた作曲家、筒美京平の仕事を追求した番組でした。
その中でもメガヒットを出した何曲かを、歌手の話、音楽プロデューサーと編曲家、作詞家の証言と共に分析していました。
どれも当時耳にたこができるくらい世の中に流れていた曲です。しかし、そこには筒美さん独特の拘りがありました。
例えば、出だしのイントロをパンチのあるものにすること。針を落とした瞬間にあふれ出す音。
そして合間を飽きさせないように次々に工夫する。1曲に10曲くらいのアイディアを盛り込む、などだそうです。
凄いですね~!
その昔ですが、近藤真彦の「スニーカーブルース」を聞いた時には衝撃でした。
歌詞がそのまま物語になっていて映像が思い浮ぶのです。途中で曲調が変わり「街角は雨、ブルースのようさ…」ここはぐっと来ます。
マッチが言うには、間にギターの音が入り「ギターが泣いている」と言うのです。確かにキィーンという音が聞こえます。
これは演出だったのですね、初めて知りました。
この曲は他にも色々な趣向が凝らされていたようです。当時の新聞記事を覚えています。
合いの手の「ベイビー」と言うかけ声が頻繁に入ります。見る人の気持ちが高ぶるそうです。
また、歌手の出ない音程を入れる事で、歌い手は絶叫するような、切迫感を出し、人の心をそそるそうです。
さて、33歳となった筒美さんがタッグを組んだ作詞家が松本隆でした。この人は元はっぴいえんどの人です。
松本隆さんも、振り返ると歌謡曲のもう一方の巨人となりました。
しかし初めて筒美さんとコンビを組んだ時はまだ24歳でした。
松本さんの書いた型破りの詞が「木綿のハンカチーフ」でした。
苦労しながら曲を付けた筒美さん。この曲は大ヒットしました。
個人的にはあまり好きじゃないんですよね。いかにもベタで万人受けを狙った安易さがある気がします。
私はロックス好きの音楽趣味なので、ごめんなさい。見逃して下さい。
時代は急激に変化を迎えます。フォークソング、ロックの台頭、電子音楽の参入など。
筒美さんは新しい音楽の人たちと共に挑戦します。CCBに楽曲を提供し、ハイトーンボイスのドラマーにボーカルを任せます。
それがまた大きなヒットを生み出します。私もこの曲をたまに思い出すことがあります。リズムが個性的な名曲だと思います。
1960年から1980年の間、筒美さんの曲は、毎週のようにチャート入りし、歌謡界で息の掛かってない人はいないかのような飛ばし振りでした。
それはたまたま天才肌だというのではなく、本人の工夫がありました。
「一つとして被ることのない曲」「普通の人に思いつかない作曲のセンス」「進取の気鋭」と関係者は分析します。
しかし1980年以降は見る見る間に職業作家の作品がチャートから消えた、と本人が語るように、歌謡界は変化して行きました。
2000年以降は作品の数がめっきり減っています。
それにしても、作品の中には驚くほど沢山の私の好きな曲がありました。これもあれも…。同じ人が作ったとは思えない多彩さです。
一人の作曲家にみごとに騙されてきたような気もします。
1960年台、当時日本は一丸となって高度成長時代を生き抜いていました。同質で画一化されたものを見、楽しみ、親しんできました。
歌謡曲はその象徴だったような気がします。
一人の類い希な作曲家が、手を変え品を変え人の心を誘導した。
歌は歌手そのものの作品となり、誰の心にも焼き付きました。
本当に優れた人と言うのは時代の陰にいて見えないものなのでしょう。
最後に未発表の曲が流れました。「ペイルムーン」という曲です。
「淡い月」と訳されていましたが、私には「青ざめた月」に感じました。