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藷爺の甘藷の花が飢ゑ救ふ

2024年06月28日 10時06分46秒 | 日記

藷爺の甘藷の花が飢ゑ救ふ    白兎
いもじいのかんしよのはながうゑすくふ
甘藷の花(さつまいものはな)は晩夏の季語。子季語に、薩摩芋の花、甘藷(かんしょ)の花。
甘藷はヒルガオ科サツマイモ属の一年生作物。原産地は中央アメリカのメキシコ中央部からグアテマラにかけてとする説が有力である。紀元前3000年以前から、メキシコ地域で栽培化されていたとみられている。その後は南米に伝わり、古代ペルーの遺跡からサツマイモの葉や花、根を描いた土器や綿布が発見されていることから、重要作物になっていったと考えられている。
日本へは、17世紀初めに中国から琉球にもたらされ、やがて薩摩へ伝わり、九州南部で栽培されたのが「薩摩の芋」として、全国へ広まり定着した。西日本の大飢饉の折に、鹿児島で餓死者を出さなかったことから、凶作の年でも収穫が見込める救荒作物として重要視されるようになり、江戸時代に飢饉を救う救荒作物として栽培が奨励された。飢饉対策に腐心していた江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の命によって、享保20年(1735年)、蘭学者の青木昆陽が薩摩から江戸に種芋を取り寄せて、小石川御薬園(現:小石川植物園)などでサツマイモを試作し、これをきっかけに東日本各地でも栽培が広がった。
この直後、明和3年(1766年)に御前崎で「藷爺さん」が栽培を始めている。「いもじいさん」とは、御前崎でサツマイモの栽培を最初に行い、この地方にサツマイモの栽培を広げた大澤権右衛門のことである。大澤権右衛門は、元禄7年(1694年)に御前崎の内浜の一角、遠江国榛原郡地頭方村二ツ家の組頭の家に生まれた。明和3年の春、海岸で1隻の難破船を見つけた。この船は、九州の薩摩藩の「豊徳丸・とよとくまる」という船で、薩摩藩の用物を運ぶ途中であったという。権右衛門親子らは村人を集め、船員24名を助けた。そして、彼らに衣類や食事を与え、手厚く介抱した。その際、薩摩藩はお礼に金20両を差し出そうとしたが、難破した船を助けるのは村の慣わしだと言って断り、その代わりに難破していた「豊徳丸」が積んでいたサツマイモを貰い受け、その栽培方法を教えてもらった。以来、御前崎にサツマイモの栽培が広がった。

大澤権右衛門は安永7年(1778年)に亡くなったが、この地方にサツマイモの栽培を広めた功績は大きく、村人達は百年忌に当たる明治11年(1878年)、大澤山海福寺に「宝篋印塔(供養塔)」を建立し、その後、明治41年(1908年)にサツマイモ伝来の経緯を記した「いもじいさんの碑」を建て心から感謝の気持ちを表した。画像出典:石川県立大学&御前崎市。

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