日々是好舌

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幕末の 三舟もいた 駿府城

2012年08月01日 13時19分17秒 | 日記
静岡市葵区御幸町三の二一、旧東海道に面したこの地は、明治元年(慶応四年)三月九日、幕府軍事総裁勝海舟の密命を受け、薩摩藩士益満休之助を道案内にして駿府へ着いた幕臣山岡鉄太郎が官軍大参謀西郷吉之助と会見した松崎屋源兵衛宅のあった場所である。
そこから少し北側の御幸通りの静岡市役所の隣、静岡中央警察署前の濠端に「教導石」という石碑が建っているが教導石の字は山岡鉄舟の筆になるもので拓本を取る者も少なくない。

山岡鉄舟高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。字は曠野、一に猛虎、後に鉄舟と号した。
鉄太郎は天保七年六月十日、本所大川端通り四軒屋敷の小野朝右衛門高福(たかよし)の五男として生まれた。母は鹿島神宮宮司、塚原石見直正の二女で名は磯子である。小野家は代々幕府の旗本で六〇〇石の家禄であった。
鉄太郎は幼少から、観世音菩薩を信仰し、九歳から剣道に志して、久須美閑適斎について真影流剣法と樫原流槍術を学んだ。
鉄太郎十一歳の弘化二年に、父朝右衛門が飛騨郡代として高山代官所へ赴任したので、鉄太郎も父に随って高山へ行き、十七歳までそこに過ごした。その間、学問を富田節斎に、書道を弘法大師入木道五十二世岩佐市右衛門に習った。剣道は、父が江戸から呼び寄せた一刀流の井上清虎に学んでいた。書道は殊に上達がいちじるしく、道統五十三世に指定されたほどであった。
鉄太郎十六歳の嘉永四年九月二十五日、母磯子が高山陣屋で病没し、翌五年二月二十七日、父朝右衛門も病死した。鉄太郎は父の遺産三千五百両をあずかり、五人の弟たちを連れて江戸に戻り、腹違いの兄小野古風の家に仮寓した。
鉄太郎は十八歳の時から幕府の講武所に入って学び、技倆ますます進んだ。二十歳のとき、山岡静山の門に入って槍術を学び、技術・思想の上で大きな感化をうけたが、ほどなくして静山は死去し、鉄太郎は望まれてその長女英子の婿として、山岡家に入った。英子十五歳、鉄太郎二十歳であった。この山岡静山こそが高橋泥舟の実兄である。
翌年、鉄太郎は技倆を買われて講武所世話役に挙げられた。この前後から北辰一刀流千葉周作の玄武館道場に籍を入れている。
千葉道場の同門であった清川八郎と結び、尊皇攘夷党をおこして、自ら幕府を策動して朝旨に従わそうと奔走しはじめたのは二十四歳のときからである。
鉄太郎が、中西一刀流の浅利又七郎義明のところへ正式に入門したのは文久三年、鉄舟二十八歳のときであった。このころから彼は禅学にも打ち込み始めたようである。
明治元年、西郷隆盛と会見して江戸を焦土から救った。江戸開城後は、徳川慶喜にしたがって駿府に移り、権大参事となって民政をつかさどった。後に明治新政府に出仕し、子爵に叙せられた。
鉄舟は禅学に精通し、武州柴村長徳寺願翁、豆州沢地村竜沢寺星定、京都相国寺独園、京都嵯峨天竜寺滴水、相州鎌倉円覚寺洪川の五和尚に参じ、ついに天竜寺滴水和尚の印可を得た。ここにおいて開悟し、無刀流を創めた。時に明治十三年であった。
明治十七年、伊東一刀斎正統九世の小野次郎右衛門業雄から、正伝の奥秘と家伝の瓶割刀を鉄舟に伝えた。すなわち鉄舟は中西派一刀流七世であると同時に小野派一刀流宗家の系譜では小野業雄を継いで一刀斎正統十世になったわけである。
鉄舟は明治二十一年七月十九日、五十三歳にて死去し、谷中初音町の余生庵に葬る。瓶割刀は未亡人から日光山の神庫に奉納された。

高橋伊勢守政晃は天保六年二月十七日、旗本山岡市郎右衛門正業の次男として江戸において生まれる。母方を継いで高橋包承の養子となる。字は寛猛、幼名は謙三郎、後に精一郎と改め、伊勢と称した。号を忍歳といい泥舟は後年の号である。
生家の山岡家は長兄の紀一郎静山が継いだが二十七歳で早世したため婿養子に迎えた門人小野鉄太郎が後の鉄舟で泥舟の義弟にあたる。
外祖父、高橋義左衛門包実に忍心流の管槍を学び、名人の域に達した。安政三年、講武所槍術教授方に任じられた際、流名を新しく自得院流と称したのである。後、師範役に上り、さらに幕府軍政改革のとき遊撃・精鋭二隊の総督に任じた。
勝海舟が官軍の西郷隆盛への使者として選んだのが泥舟であったが、世情不安の中で主君である慶喜の側を離れることができず代わりに推薦したのが義弟の鉄舟であった。
徳川家が静岡へ移封されたのに従い、地方奉行などを務め、一時は田中城を預かる。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲、書画骨董の鑑定などをして半生を送った。
明治三十六年二月十三日、牛込矢来町の自宅において没した。享年六十九歳。台東区谷中の大雄寺に墓がある。

勝海舟は通称を麟太郎。諱(いみな)は義邦。維新後改名して安芳(やすよし)と名乗った。文政六年、江戸本所亀沢町の生まれ。
父は旗本小普請組の勝小吉こと左衛門太郎惟寅、母は信。勝家の家禄は四十一石であった。父小吉は男谷平蔵忠凞の三男で勝家の婿養子になったが、平蔵忠凞の長子彦四郎忠果の養子が直心影流十三代目の男谷下総守信友であり、海舟と信友は縁続きの従兄弟である。
海舟の曽祖父銀一は越後小千谷から素寒貧で江戸に出てきた貧農の子で盲人であったが、たまたま雪夜に奥医師石坂宗哲の門前に倒れていたのを助けられ、宗哲から一両二分の資金を借りて生業の途についた。利財の才に長けていたところから、とんとん拍子に裕福になり、後には盲人の最高位である検校の位を買い、江戸府内十七ケ所の地主に成り上がったばかりでなく、大名貸しをするほどであった。九人の子を持ち、その内の一人に幕府の小十人組の御家人株を買い与えた。これが男谷平蔵忠凞である。
信友の養父彦四郎は燕斎と号し書家としても名を知られていた。信友は八歳のときから本所亀沢町の団野源之進の門に入り、直心影流の剣法を学んだ。その後、さらに平山行蔵について兵法を学び、他に宝蔵院槍術や吉田流射術にも熟達した。
文政年中、直心影流的伝を団野から授けられて十三代目になり、麻布狸穴に道場を開いた。この道場へ内弟子として住み込んで腕を磨いたのが島田虎之助峴山で海舟の剣術の師である。
海舟は幼時は従兄弟の男谷信友の道場で、後に信友の高弟、島田虎之助峴山に学んで直心影流の免許皆伝を得ている。
九歳のころ犬に睾丸を咬まれて生死の間をさまよったことは父小吉の著述「夢酔独言」に書いてある。
海舟の事績については小説やテレビドラマなどで広く知られているから、改めて書き並べることを省くが、幕府軍事総裁のころの役高は五〇〇〇石だったようだ。
静岡市葵区沓谷にある日蓮宗貞松山蓮永寺には海舟の母信と妹順子の墓がある。順子は佐久間象山の室であった。

◆鉄舟の筆跡教導石に残る
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