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日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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黒俣の坂野集落大公孫樹

2021年03月17日 11時21分05秒 | 日記
【黒俣の大イチョウ】
静岡市街地から国道362号線を藁科川に沿って千頭方面に向かい、「きよさわ里の駅」を過ぎて少しすると、バス終点の「久能尾(きゅうのお)」というところがあります。尾崎商店とガソリンスタンドが目印です。ここを左に直進し、県道藤枝黒俣線を進みます。黒俣川の谷に沿って清笹峠へ向かう途中の坂野集落にある。

黒俣の大イチョウは、標高320m、茶畑の上の高台に一本だけ立つ大樹で、目通り8.3m、根回り13.30m、樹高20.0m、枝張東西17.0m、南北17.0m。推定樹齢500年。静岡県指定の天然記念物です。県内のイチョウでは屈指の巨木と言われています。
所在地
静岡市葵区黒俣字田島沢2184-2 ・2249
所有者
勝山博文氏、前田りん氏

閑話休題。
久能尾集落の次は、上和田集落で、戸平、中村、坂野、清笹峠と続く。
藁科川流域の谷筋は古来より重要な交通路であった。谷を遡り分水稜線を越える街道は商いの道、戦の道、そして信仰の道として賑わった。藁科川流域の谷は大きく開け、また分水稜線も比較的ゆったりした地形であるため、古代より自ずと交通路が開かれたのだろう。笹間峠で分水稜を越える道、いわゆる「笹間街道」は大井川流域に通じている。この道は東海道の裏街道として、また駿府から秋葉山への参詣道として賑わった。また、洗沢峠で分水稜を越える道は「川根街道」と呼ばれ、木材集積地としてその賑わいは江戸にも勝るといわれた川根地方に通じていた。武田信玄の侵略を受けた今川氏真はこの道を通って掛川城へ落ち延びていった。しかし時代が移り、人と物の流れが変化した今、これらの峠越えの道はすっかりその様相を変えた。
川根街道もまた、道筋を若干変えた上で国道362号線として今に余命を保っているものの、国道とは名ばかりの車も擦違えない狭いところもある道路であり、その重要性は昔と比ぶべくもない。旧川根街道の起点である昼居渡集落最上部の人家の裏手から、古道と思える一本の道が茶畑を突っ切って背後の尾根へ登っている。途中の八伏集落を経て洗沢に至るこの街道を明治の終わりまで毎日何百人という人々が往復したという。しかし、大正2年、蛇塚集落からいきなり谷筋に下りる車馬通行可能な新川根街道が開削されたことにより、峠道としての使命を終えた。この新川根街道が現在の国道362号線である。
旧清沢村の久能尾集落から黒俣川を遡り、上流の中村集落から支尾根を登って峠に達する道はいわば間道である。
この笹間峠は昭和10年代までにぎわった。毎日「持子」と呼ばれる荷運び人夫が数十人単位でこの峠を往復した。笹間からは茶、椎茸、繭が、久能尾からは生活用品が運ばれた。そして駿府方面からの秋葉山参詣の人々もこの峠を川根笹間へ越えた。昭和10年代に、すぐ隣の清笹峠に車馬通行可能な道路が開削されたことによりこの峠道は使命を終えた。
「黒俣の大イチョウ」は、樹齢500年ともいうから笹間街道の盛衰を見てきたのに違いない。
写真撮影は静岡市議・安竹信男氏。


この人が龍馬を斬った男です

2021年03月14日 09時43分46秒 | 日記
 今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年12月2日)、~ 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。
 今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原鍵吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、衝鋒隊副隊長として佐幕活動を行い、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。明治3年(1870年)2月、嫌疑をかけられ身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。今井は、龍馬暗殺の詳細を証言、自分は見張り役として参加し手は出していないことを語った。同年9月、禁固刑の判決を受け、静岡で謹慎後、明治5年(1872年)1月に赦免された。
 今井は静岡を生活の基盤にし、駿府城の跡地を入手、学校の経営を始めた。農業実習から兵事訓練にいたるまで広範に教授した。しかし、新政府にかつての履歴を危惧され、学校は後に無償で兵営用地として明け渡された。明治8年(1875年)、静岡県に出仕し、翌9年、静岡県の所轄下の八丈島へ赴任した。八丈島で教壇に立つ職員に、自らの理想や理念を伝えた。在島期間1年2ヶ月あまりだが、大賀郷小学校、樫立小学校が開設された。『八丈島誌』の「島の教育通史」のなかで、「静岡県吏今井信郎氏が来島、学制の改革を行い、教員を啓蒙し学校教育を進展させた」と、今井の功績を称賛している。
 明治11年(1878年)、大井川南方の牧ノ原一帯の開墾地域である旧榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に入植、農耕生活に移行するとともに、キリスト教に帰依した。島田へのキリスト教伝来は明治20年(1887年)とされており、カナダ人宣教師のF.A.カシディが、島田町長らの歓迎のもと、静岡教会から島田在住の信者宅を訪問したことがその起点となった。今井の洗礼時期は不明だが、日本メソジスト教会監督の平岩愃保から洗礼を受けている。

 明治14年(1881年)、信仰生活を送るかたわら、農事改良を推進するため榛原郡農事会会長に就任した。明治28年(1895年)、榛原郡農会と改称されたが、明治34年(1901年)までの20年間、会長職を勤めた。明治34年(1901年)、学務委員就任、入植地の初倉尋常小学校の教育に関わった。明治22年(1889年)より3回、村会議員に当選、明治39年(1906年)から3年間、初倉村長を勤めた。

 慶応2年(1866年)の春、岩鼻代官所から招聘され1ヵ年の契約で赴任、剣道師範に携わっていたが、翌年の慶応3年(1867年)5月、江戸で京都見廻組への入隊を拝命、同年10月に着京した。そして、選抜され京都見廻組与力頭となり、今出あたりに旅宿を構えていたが、その腕前はたちまち組じゅうに知られ、新選組では服部武雄、見廻組では今井信郎と並称されるようになった。今井は、京都で公務に邁進する過程で、ほどなく坂本龍馬暗殺事件に関わることになる。
 慶応3年(1867年)11月15日朝、桑名藩士で見廻組の一員である渡辺吉太郎が今井の寓居を訪ねてきた。二人でなにかヒソヒソ話していたが、やがて今井は、蓑をつけ、竹の小笠をかぶり、地面に引きずるような朱鞘の長刀をさし、妻いわに「ちょっと行ってくるよ」と言い、渡辺と連れ立って出かけた。その日は朝来の曇り空で、時々しぐれ雨が寒々と降り過ぎるような天気であった。妻いわは、今井の扮装を見て、てっきり斬込みに行くものと思い、不安な思いで待っていたが、遂にその夜は帰ってこない。翌日になっても姿を見せない。殺されたものなら、誰かが知らせてくれるだろうと度胸を定めていたところ、今井は、懐ろ手をしてブラリと帰ってきた。無言のまま部屋の隅に行き、後向きになって何かコソコソしている。ソッと覗いてみると右手の包帯をとき、焼酎か何かで消毒している。「どうしてお怪我なさったのか」と訊くと、「よけいなことをきくに及ばん」と叱りつけ、ひどく不機嫌である。そのまま黙って捨てておくより外なかった。
 話によれば、坂本龍馬が越前の松平春嶽に会って帰って以来、見廻組で彼の身辺を監視していると、しきりに何か策謀しているらしい。捨ておいては何をするか判らない、斬ってしまえという守護職の命で、佐々木唯三郎がその衛にあたる事になった。慶応3年(1867年)11月15日、龍馬暗殺の当日、佐々木唯三郎の下には、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之介、土肥仲蔵、桜井大三郎の6名、連れ立って坂本の宿屋附近までやってきた。八ッ時(午後2時頃)、まず京都の与力の桂隼之介を先行させ、在宿の有無を探らせたところ、不在とのことで、一同しばらく東山辺で時をかせぎ、夜になるのを待った。五ッ時(午後8時)近く、四条大橋にさしかかったと時、丁度雨はやんでいたので、佐々木は一同に命じ、蓑笠を脱いで橋下に投げ捨て、各自の袂や懐中を探って、後日の証拠となるような品を投棄させた。そこで斬込み順番の籤を引くと、今井は第三番にあたったので、大不平でやりなおしを強要し、今度は第一番に中った。
 河原町三条下ル近江屋の前にくると、今井は単身先に立って、表戸を叩き、案内を乞うた。二階から取次におりてきたのは、以前雲井龍と称した相撲上がりの下僕藤吉である。これは海援隊書記長岡謙吉の僕であるが、警衛の意味をも兼ねて数日前から坂本につけてあった。今井は用意してきた手札を出し、「松代藩の者であるが才谷先生はお在宿か」と尋ねると、「一寸お待ちください」と云って藤吉は手札をもち、二階へ上がろうとする。お待ちくださいとゆうからには、在宿に決まっていると思ったので、階段を上がりかけた藤吉を、いきなり背後から抜打ちに斬り倒した。そして刀を一旦鞘におさめて、何食わぬ顔をして二階へ上がっていった。二階八畳の間には、火鉢を囲んで二人の武士が話しをしていた。どちらが坂本か、全然顔を知らないので咄嗟の機転で部屋に入るなり膝をつき、「坂本先生、しばらく」と挨拶し、左手で鯉口を切りながら膝行り寄った。坂本は、「どなたでしたかな」と言って、顔をさしよせるようにした。瞬間、今井の刀は掛声と共に鞘走って、坂本の脳天を横に拂った。右手にいた中岡は、脇差をもって立ち上がろうとした。そこを今井は立ち上がりざまに斬りつけた。中岡は脇差を抜く暇なく、鞘ごと両手で頭上に捧げるようにして受けたが、受けきれなかった。今井は、叩きつけるように数刀を浴びせ、中岡を斬り伏せた。その間に、坂本は背後にあった太刀をとり、既にヨロヨロしながら、引き返して来ようとしていた。それと見て今井は、踏み込むなり肩先から大袈裟に斬った。その時坂本は、何ともいえぬ悲惨な、泣くような悲鳴をあげたので、「この意気地なし奴」、叱咤しながら又一太刀横に拂った、坂本が提げていた刀の鞘を削り、腰のあたりに斬りつけた。部屋に入ってからほんの二、三分の間の出来事である。
 ある朝早く妻いわの寝ているうちに帰ってくるなり、「これからすぐお前だけ江戸へ帰れ。早く荷拵えしろ、俺も手伝ってやる」と急ぎたて支度させた。その時、長刀と一通の褒状を妻いわに與へ「これでもって俺が坂本と中岡とを斬った。榊原先生にお目にかけてくれ。これは守護職から賜った褒状だ」といって、はじめて真相をうちあけた。
「父は小太刀の名人であったという定評になっているようだが、それは何かの間違いで、いつも引きずるような長刀を好んで差していた。しかも古刀は駄目だ、新刀の重いやつに限ると言っていた。坂本を斬ったのも新刀の長いやつで、天井につかえて困ったそうだ。それを母が持って帰る時に、縦にしては籠に入らず、斜めにして持ってきたというから、よほど長かったらしい。(信郎三男で衆議院議員・農林参与官・商工政務次官・文部政務次官を歴任した今井健彦氏談。)
 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、今井は、江戸に戻ると、幕府陸軍の訓練を担当していた古屋佐久左衛門と共に、脱走した幕府歩兵の鎮撫に当たり、後に組織された衝鋒隊の副隊長となり、戊辰戦争においては最後の箱館戦争まで戦い抜いた。
その後、明治42年(1909年)12月17日、大阪新報記者和田天華の質問に対し、今井は、ようやく事実を話した。
1、暗殺に非ず、幕府の命令に依り、職務を以捕縛に向、格闘したるなり。
2、新選組と関係なし。予は当時見廻組与力頭なりし。
3、彼会て伏見に於いて、同心3名を銃撃し、逸走したる間罪の為なり。
4、場所は、京都蛸薬師角、近江屋という醤油屋の二階なり。
今井は、当時の政権を握る徳川幕府の命令によって行動したということに、確呼たる信念を有していた。それを、次いで政権を握った者の前に真相を明らかにし、極刑を処されるのは愚の至であるといった。
 大正5年(1916年)、今井信郎は脳卒中で倒れ、2年間の病床生活の後、大正7年(1918年)6月25日、死去した、行年78歳、法名は「隆徳院殿信慶了義居士」。妻いわは、その1年半後、大正9年(1920年)1月25日、死去した、行年77歳、法名は「最勝院殿信屋知照大姉」。東京都文京区白山の法輪山寂圓寺には、父今井守胤、妻きね、今井信郎、妻いわ、信郎長女りう、三女つるの墓碑がある。
本稿は、ウイキペディアの記事から抜粋編集しました。写真は鈴木勲さん撮影。

弥次喜多の作家は駿府生まれです

2021年03月06日 14時46分49秒 | 日記
十返舎 一九(じっぺんしゃいっく)明和2年(1765年) ~ 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。

駿河国府中(駿府:現在の静岡市葵区)で町奉行の同心の子として生まれた。葵区両替町一丁目に、生誕の地の碑が建っている。本名は重田貞一(しげた さだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す。
江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大坂へ移り、大坂町奉行・小田切直年に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作した。
寛政6年(1794年)(30歳)、江戸へ戻り、通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)の版元・蔦屋重三郎方に寄食して、用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った。寛政7年(1795年)、蔦屋に勧められて黄表紙『心学時計草』ほか2部を出版し、以降は生活のため、20年以上にわたり、毎年20部前後の新作を書き続けた。一九は文才にくわえ絵心があり、文章だけでなく挿絵も自分で描き、版下も書くという、版元に便利な作者であった。狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳などに詳しく、狂歌を寛永期に修業し、それらを作品の素材にした。享和2年(1802年)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となった。当時の生活について「最近ではいつも出版元から係の人がきて、机の横で原稿ができあがるのを待ってます」と、現代にも通じる作家生活を描写している。
文政5年(1822年)までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き継ぎ、頻繁に取材旅行に出かけ、山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴、鈴木牧之らとも交わった。また並行して出した『方言修行 金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ)も広く読まれた。
辞世の句は「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら 」。
浅草の東陽院に葬られた。『心月院一九日光信士』。墓碑は、東京都中央区勝どき四丁目に移転した同院に残る。

天保3年(1832年)、遺族・門弟らによって、長命寺に建てられた記念碑が、今も残る。また、静岡市葵区研屋町(とぎやちょう)の医王山顕光院には重田一族の墓が建ち、一九の戒名が刻まれている。
名香「黄熱香」は十度焚いても香を失わないところから、「十返しの香」とも呼ばれる。後の筆名「十返舎」はここから、「一九」は幼名の市九から来ている。初めは十遍舎一九であったが、十偏舎、十偏斎、重田一九斎なども用い、享和ころから十返舎一九に定まった。
父親が元八王子千人同心の重田与八郎の次男であるため、墓石や過去帳には元八王子千人同心の子と記載されている。本文の出典はウイキペディア。写真は伊藤彰氏撮影。


赤梅も紅茶も起木天神社

2021年01月29日 15時43分50秒 | 日記
起木神社(おきぎじんじゃ)は、起木天神社とも、起樹天満宮ともいう。祭神は菅原道真公。
場所は、静岡市駿河区丸子6625。国道1号線「赤目ヶ谷」交差点から北側の側道に入り、約500m。臨済宗妙心寺派「霊泉山長源寺」の奥にある。

建久6年(1195年)、上洛のため源頼朝が当神社の前を通るというとき、紅梅の大樹が道の中央に倒れていた。頼朝は、通行の妨げとして伐採を命じた。ところが、倒れていた梅の木は、その夜のうちに元通り起き上がった。以来、当神社を「起木天神社」あるいは「起樹天満宮」と称した、という。残念ながら、その「起き木」は枯れてしまったが、その一枝は今も当神社に納められているそうである。

なお、菅原道真公が紅梅を愛したことから、かつては当神社の境内には百本以上の紅梅が植えられていたといい、そもそも「赤目ヶ谷」という地名は、元々「赤梅ケ谷」と称していたのが訛ったものという。

丸子赤目ヶ谷は日本紅茶発祥の地とされる。明治時代、日本の近代茶業の先駆者で旧幕臣の多田元吉は中国・スリランカ・インドを命がけで旅し、紅茶の製造技術や種子を持ち帰った。その後、隆盛を極めた日本産紅茶も次第に衰退し忘れられていった。現在この歴史ロマンあふれる丸子紅茶が再生産され、その成分・味・香りなどの秀逸さで注目を集めている。

多田元吉翁の顕彰碑は起樹天満宮に、墓は隣の長源寺にある。

静岡に住んだ新門辰五郎

2021年01月27日 20時38分04秒 | 日記
新門 辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)~ 明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消の頭であり、いわゆる侠客である。
実父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の愛妾。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門辺りの責任者である事に由来する。「新門」は「しんもん」と読まれるが、当人は「あらかど」と名乗っていた、とする説がある。
武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に煙管職人の子として生まれる。幼名は金太郎。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り、町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する仁右衛門に目をかけられ、辰五郎の名を与えられる。
文政4年(1821年)の浅草花川戸での火事の際、火災現場で辰五郎は纏を掲げて屋根に上ったが、遅れてやってきた筑後国柳川藩立花家の大名火消も屋根に纏を揚げた。屋根に火消組の纏を掲げる行為はこの場の消火活動を同組が仕切ることを表明する行為であり、火消の誉れであり、これは先着が優先とされていた。大名(武士)と町人という身分の違いこそあれ、柳川藩立花家側のマナー違反であり、自分や「を組」ひいては町火消が恥辱を受けた、と考えた辰五郎は自分の持つ纏で柳川藩の纏持ちを殴りつけ、柳川藩の纏持ちは転落し負傷した。このため両陣営が喧嘩となった。鎮火後、辰五郎は単身で柳川藩藩邸に乗り込み、下手人は自分であるため好きにしろ、と啖呵を切った。柳川藩はこれを処分することができず、辰五郎は無罪放免となった。この顛末は世間の評判となり、を組の火消の辰五郎は江戸の町で名を上げた。
18歳で仁右衛門の娘の錦を貰い養子縁組し、文政7年(1824年)に「を組」を継承する。同組の200余名の火消の棟梁としてだけではなく、侠客や博徒、的屋や香具師などの元締め的存在であった。
天保5年(1834年)7月、芝麻布桜田町の武家屋敷の火災の際、「ろ組」と「と組」が揉め始め、「を組」の梯子持ちが巻き込まれて重傷を負った。三組が睨み合い、三つ巴の喧嘩が始まろうとした際、辰五郎が輪の中心に入り「この喧嘩は辰五郎が預かった」と一喝したため、喧嘩は収まった、なる話がある。 なおこの際に、火事場の視察中であった馬上の南町奉行池田播磨守(池田頼方)が「この仲裁、辰五郎に任せたぞ。」と一任して去っていった、とする話も伝わるが、池田はこの当時は町奉行でも播磨守でもない。
弘化2年(1845年)正月24日に青山で起こった火事(青山火事)の現場で、を組と久留米藩有馬家の有馬頼永率いる大名火消とが乱闘になり死傷者が出た。非は有馬側にあったとされるものの辰五郎は、身分上下の筋が通らないとして自ら出頭し、責を取って江戸所払いとなる。しかし夜な夜な江戸市中の二人の妾の元へ通い、その邸宅から子分に指示を出していたことが露見し再逮捕され、石川島の人足寄場に送られた。翌年の大火の際、佃島に迫った火災に対し、牢仲間の博徒小金井小次郎と寄場の人足(囚人)を率いて消火活動を行い、油倉庫を救った。この功績を南町奉行遠山景元に賞され、放免とされた。
上野大慈院別当・覚王院義観が浅草寺界隈の掃除方(一帯の取締)を依頼した。辰五郎はこれにより、浅草の的屋や香具師などの上に立つようになり、財を成した。前寛永寺座主の舜仁法親王が浅草新門あたりに隠棲した際、幕府より周辺の警護を命じられ、以降「新門」を名乗るようになった。幕府の高級官僚だった勝海舟とも交流があったと言われ、その著書『氷川清話』の中でも触れられている。
義観の仲介により一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、のちに娘の芳は慶喜の妾となっている。元治元年(1864年)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分250名を率い、同じく60人を率いた息子の松五郎と共に東海道を上洛して、二条城の警備などを行う。大坂と京にも邸宅を構え、同地の火消の任を与えられた。同地滞在中、部下に梯子乗りを披露させて京童の肝を抜いたと伝わる。慶応3年(1867年)の大政奉還で江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には辰五郎らも一旦撤退するが、大坂にとって返し、大坂城に残されたままになっていた徳川軍の象徴「家康以来の金扇の大馬印」を取り戻すと、これを掲げたまま東海道を下って無事送り届けた。
のち慶喜が謹慎している上野寛永寺の警護に当たっている。旧幕臣(彰義隊)と新政府軍による上野戦争に際しては寛永寺伽藍の防火と鎮火、延焼の防止に勤め、慶喜が水戸(茨城県)さらに駿府(現静岡市葵区)へと移されそれぞれの地で謹慎させられた際もそれぞれの地で警護を務めている。徳川家が駿河国(駿府藩)に移されることになった際、旧幕臣の集まりが悪いために将軍最後の大名行列を編成するには寂しいことになりそうであった。辰五郎が江戸中の配下に声をかけ、侠客や町火消が装備を纏って集結、江戸町火消全組の纏が振り投げられ、数千人の火消らが警護する中、幕府は江戸を後にした。この行列には江戸城から運び出された将軍家の金2万両も含まれていたが、この金も辰五郎らが警備し運搬した。

駿河到着後は駿府の常光寺に住んだ。在静中の約3年の間に次の事業に取り組んだ。
静岡町火消し4組の創設と出初式・江戸木遣りの伝承。歌舞伎の芝居小屋「玉川広太夫座」の再建。遠江国磐田郡で駿府藩が行った製塩事業への協力。駿河湾沖の洋式捕鯨の許可申請への協力。徳川家を慕って来静した旧幕臣達の世話など。駿河国清水の著名な侠客であった清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。その後、東京(江戸)へ帰って、明治8年(1875年)に没。享年75。
辞世の歌は、「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」。


北遠の光明山に聖地あり

2021年01月26日 10時54分07秒 | 日記
「稚児の滝」
天竜川の船明ダム上流、左岸から流れ込む天竜河内川の佐久地区にある滝。天竜相津花桃の里を右折し佐久地区の入口に架かる万世橋袂の公民館横に案内標識がある。
「稚児(ちご)の滝」の落差は15m。水量はそれほど多くないが、滝壺はそこそこ深そうである。

案内看板には次のように記されている。
「その昔、光明寺に美しき稚児あり 賢明にして修行したるも 長ずるに及び煩悩脱却し得ず 或夜不動尊夢枕に立ち 「汝煩悩を去らんと欲せば 我が泉下に修行せよ」と滝のほとりに消え去りぬ 稚児滝を求めてここに至り行じて後大成す」。

静岡県浜松市天竜区山東2873にある金光明山 光明寺(こんこうみょうざん こうみょうじ)は、奈良時代(養老元年・717年)元正天皇の勅命を受けた僧行基により開創された古刹。奥之院の摩利支天(まりしてん)は今川家、徳川家御本丸の祈願所として信仰されてきた。また、境内には一本杉でつくられた国内最大の大黒天があります。この大黒天は、行基作の三満虚蔵菩薩で、高さ2.3mほどで遠州福の神として信仰を集めている。
光明山は、天竜区北部、気田川の東にある標高539mの山。かつて光明寺が置かれたところで、石段や石垣などの跡が残っている。眺望も美しく、空気が住んだ晴れた日には、天竜川と海まで広がる平野部を一望することができる。光明寺は元々光明山にありましたが、昭和6年(1931年)の火災で焼失し、現在の場所に移設されました。光明山は標高540mで秋葉山とともに古代から山岳霊場として知られ、秋葉の火の神に対して、水の神として信仰を集めてきた。画像出展:浜松市役所産業部観光・シティプロモーション課並びにFBフレンド瀧本美知子さん撮影。

戦艦の砲身建てた平和塔

2020年12月10日 14時54分20秒 | 日記
長田平和塔
『大正14年11月23日に海軍省から横鎮長官宛に訓令
廃兵器無償下附ノ件
横須賀海軍々需部保管ノ右記廃兵器ヲ附記ノ者ニ無償下附方取計フべシ
但シ現品搬出ニ要スル費用ハ下附ヲ受クル 者ノ負担トス
右訓令ス

一、四十五口径露式二十五糎 VI型砲身 番号呉三一 一門
一、四十五口径十ニ糎二号徹甲弾 九個
一、四十五糎魚型水雷 頭部共 一個
一、浮標水雷缶内機ヲ除ク 一個
一、鉄鏈 一ニ粍ノモノ 一〇米以内
静岡県阿倍郡長田村村長宛』

由来の案内板によれば、海軍駆逐艦砲身及び砲弾丸などの下賜を受け、大正15年1月起工、8月に忠魂塔として竣工した。
忠魂塔建設諸費の予算は金七千円で、内訳は、忠魂塔建設工事費金六千百六十九円五十九銭也。
工事監督費金百三十円四十一銭也。
除幕式費金七百円也。

元々は、正面に東郷平八郎元帥による「極天護皇基」の五文字があった。日清日露日独の三役に出征し戦死された長田村出身者の尽忠報国の勲功を讚え、また親慰籍のため、村民の寄付土地と拠金により完成した。その後、満洲、支那事変、大東亜戦争などの戦没者も追悼慰霊してきた。

平成6年9月、大東亜戦争敗戦から50年、経年劣化により地震被害が心配されたため、砲身を短く切断し台座の補強を行ない、名前も「長田平和塔」と改名された。台座の「忠魂塔記」によれば、この砲身は大正四年呉工廠所鋳造四十五口径露式二十五糎 VI型砲身(番号呉三一 号)で、かつて軍艦「周防」甲板上にあり青島(チンタオ)の独軍を威嚇した、とある。

「周防(すおう)」は、元はロシア太平洋艦隊の戦艦「ポベーダ」であったが、日露戦の折に旅順で鹵獲され日本海軍に編入されたもの。第一次世界大戦では青島攻略戦に参加、第二艦隊の旗艦であった。大正11年のワシントン軍縮条約で除籍・解体となった。

人助け竜宮小僧祀る里

2020年12月06日 16時46分51秒 | 日記
竜宮小僧の伝説

昔むかし、久留女木川(都田川の上流部)には、大淵と呼ばれる深い淵があった。その青々と水をたたえる淵の底は、竜宮に通じているといわれていた。 
 田植えのころ、村人は、忙しさに猫の手も借りたい思いで「誰か手伝ってくれんかのー」とつぶやくと、不意に大淵から小僧が飛び出してきて「オレ、手伝うぜ」といって田植えを手伝ってくれた。そして夕方になると、どこかへ帰ってしまった。 
 また、夏の日の午後、急に真っ黒い雲が湧き出て、見る間に滝のような大雨が降りだした。田んぼ仕事をしていた村人は帰る間もなく「あっ、困った。干し物が濡れてしまう」と思いきや、また大淵から小僧が出てきて、村中の干し物をよせてくれた。 
 村人が「お前はどこの小僧さんだね?」と尋ねても「どこでもいいじゃないけ」と笑って何も話さない。でも村人は、この不思議な小僧を、竜宮に通じる大淵から来る「竜宮小僧」と呼んで可愛がり、小僧も村人と、とても仲良くなった。
 「おい、小僧さん。いつも手伝ってもらうで、ご馳走したいが、何が好きかな?」と聞くと「何でもいいが、蓼汁だけは食わせないでおくんなさい」と、ひどく蓼汁を嫌っていた。
 ところが、ある日のこと。村人が誤って蓼汁を出してしまった。そうとは知らずに一口飲んだ小僧は「こりゃいかん!」といったかと思うと倒れ込み「久留女木の中茂にある榎木の下に葬ってほしい」といい残して死んでしまった。


 村人はひどく悲しみ、泣く泣く竜宮小僧の亡骸を、言われたとおりに榎木の下に葬った。するとその木の根元からこんこんと水が湧き出した。村人はその水を利用して、たくさんの田んぼを作った。それが久留女木の棚田であるという。
 困っている人には誰にでも手を差し伸べ、自らは名乗ることもなく、見返りも求めず、死んでもなお棚田の水源となり、今も村に恩恵を与えてくれる竜宮小僧。久留女木の村人たちは、田んぼを満たしてくれる竜宮小僧の湧き水に、今も感謝の気持ちを込め、田植えや稲刈りの後には供物をして手を合わせている。
この竜宮小僧の伝説は、伝説の中での話であり、夢物語である。と一般的には考えられておりますが、実際に存在していた話なのです。
 まず「竜宮小僧」の読み方ですが、「りゅうぐうこぞう」では、ありません。「りゅうぐうしょうそう」と読むのが正しい読み方です。つまり「竜宮」に使える「小僧(しょうそう)」と言う意味で、「小僧」とは、未熟な僧、或いは、謙遜している僧を表します。
 そして、棚田のある久留女木地区の山沿いの道を北へ辿って直ぐの所、浜松市北区引佐町渋川の古東土(ふるとうど)地区には、実際に「竜宮」は、存在しております。
浜松市北区引佐町渋川の宮脇(みやわき)地区には、古代、竜王院が、住んでいたとされる御座跡が、存在しております。

つまり「竜宮(りゅうぐう)」とは、仏教上の話で、「法華経」を守護し、その教えを衆生に広める救世主である「竜王院」が、奉っている「宮」と言うことになります。更に竜王院の墓は、浜松市北区引佐町渋川の大代(おおじろ)に存在しております。画像および解説の出典は「いだいら観音の里」。



粟ケ岳無間の鐘は井戸の底

2020年12月05日 13時20分05秒 | 日記
 粟ケ岳(あわがたけ、あわんたけ。別名無間山)は、静岡県掛川市と島田市に跨る標高532mの山である。山頂は掛川市東山に属し、島田市との市境までは約200mほどである。山頂には阿波々神社があり遠州七不思議の一つ無間の鐘の伝承がある。

 山頂近くの南東斜面にはヒノキが『茶』の文字に植林されており、島田方面や牧之原台地上から見ることができる。当初(昭和7年)は松が植えられたが、マツクイムシによる枯損から、昭和58年にヒノキに植え替えられた。

 過去の山の姿は、江戸時代の安藤広重「東海道風景図会」の一枚に描かれているほか、昭和時代初期の東海道から見た風景絵葉書にも残る。これらの時代には山頂付近にしか樹木は存在せず、山の大部分は草地となっていた。

 阿波々神社(あわわじんじゃ)は、静岡県掛川市初馬にある神社。粟ヶ岳の山頂付近に鎮座する。祭神として阿波比売命を祀り、736年に創建された。阿波々神社の境内には、素戔嗚命と櫛稲田姫を祀った八重垣神社も併設されている。周辺は照葉樹林に覆われており、この林は「阿波々神社の社叢」として掛川市が文化財に指定し、天然記念物として保護している。また、この森の中では大きな岩が散見されるが、それらは磐座として祀られていた。736年の創建以来、延喜式内社に列せられ崇敬を集め、掛川城城主の保護を受けてきた。

 遠州七不思議のひとつにも挙げられる「粟ヶ岳の無間の鐘」の伝承では、鐘を井戸に投げ込んだと伝えられているが、その井戸が境内に残されている。無間の鐘(むけんのかね)とは、静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという。

ふるさとの古き神社を崇敬す

2020年11月30日 09時48分51秒 | 日記
 荒神社は、静岡市葵区足久保奥組三六二三に鎮座する。「狐石」の手前の山の突角部である。祭神は、火産霊神、奥津比古神、奥津比賣神の三柱である。
 荒神(こうじん)とは、日本の民間信仰において、台所の神として祀られる神格の一例。
多くは仏教の尊格としての像容を備えているが、偽経を除けば本来の仏典には根拠がなく、核となったのは土着の信仰だったと考えられている。
荒神信仰には大別すると二通りの系統がある。屋内に祀られるいわゆる「三宝荒神」、屋外の「地荒神」である。
 屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
 御祭神は各社により若干の違いはあるが、道祖神、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神の火の神様系を荒神として祀っている。神道系にもこれら火の神、竈の神の荒神信仰と、密教、道教、陰陽道等が習合した「牛頭天王(ごずてんのう)」のスサノオ信仰との両方があったものと考えられる。祇園社(八坂神社)では、三寶荒神は牛頭天王の眷属神だとしている。
 荒神の語源は不明である。日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した様子が記されている。民間伝承でも、温和に福徳を保障する神と、極めて祟りやすく、これの畏敬(いけい)の誠を実現しないと危害や不幸にあうと思われた類の神があった。後者は害悪をなす悪神だが祭ることによって荒魂が和魂に転じるという信仰があった。そこでこの「荒神」とはこの後者をさしたものではないかとの説もある。
閑話休題。
 足坏(あしつぎ)神社は、静岡市葵区足久保奥組二〇〇七に鎮座する。足久保小学校を過ぎて右手の相沢橋を渡って足久保川沿いに進んだ突き当りに鎮座する。祭神は蛭子大神である。
『古事記』などにある「蛭子伝説」によれば、日本最古の神とされる伊邪那岐命、伊邪那美命夫妻は、初めての子は生まれつき体が異常に柔らかかったので、蛭のような子「ひるこ」と名付けました。しかし、3歳になっても歩けなかったことから、葦の舟(書紀では天磐櫲樟船)で海に流しまったそうです。『日本書紀』の中では、アマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコトの次に生まれる神様です。
  国学者で小児科医でもあった本居宣長は、その症状から「ひるこ」を脳性麻痺か筋萎縮症の障害児と診断しています。しかしその後「ひるこ」は、漁民に救われ、のちに七福神の仲間入りをし、大黒様とのコンビで有名な「ゑびす様」としてあがめられました。絵や像では大黒様は立っていますが、ゑびす様はいつも座っている姿しか描かれていないようです。
 「ひるこ」は、障害をもちながらも見事な復活を遂げたことから、「リハビリテーションの祖」とも呼ばれています。神話でもあり、真偽のほどは分かりかねますが、古代における障害者観の一端を垣間見ることができるようです。
 ちなみに、伊邪那岐命、伊邪那美命の二番目の子は、淡島(あわしま)と呼ばれていましたが、知的障害を伴っていたとも伝えられています。そして、三番目の子が、天照大神(あまてらすおおみかみ)で、神明神社の総本社である三重県の伊勢神宮に祀られています。
『古事記』と『日本書紀』ではよく神様の名前や由来に違いがありますが、ヒルコ神(蛭子神)はいずれにしても國産みと呼ばれる、イザナギ、イザナミの間に生まれたことは変わりません。
この不具の子が生まれた理由は、イザナギとイザナミが国産みを行う際に、天の御柱を回って声をかけるという寓話の中で、イザナミからイザナギに声をかけてしまったために、道理に反したとされ水蛭子(ひるこ)ができてしまったと神話の中では言われています。こうして、イザナギとイザナミの間に生まれた神様であるヒルコ神(蛭子神)ですが、二柱の子供としては見られなくなります。
 ヒルコ神(蛭子神)がイザナギとイザナミに舟で流された後、摂津の国西の浦という場所に流れ着きます。その土地の人々がヒルコ神(蛭子神)を見つけ、「戎三郎(えびすさぶろう)」とお呼びして大切に育て上げ、後に戎大神(えびすおおかみ)として祀られるようになったという話です。