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日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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粥占の穀霊波に乗りて寄す 

2022年02月19日 10時47分14秒 | 日記

粥占の穀霊波に乗りて寄す   白兎

かゆうらのこくれいなみにのりてよす

粥占(かゆうら)は新年の季語。子季語に、粥試、粥占祭、粥占神祭、管粥、筒粥。
御穂神社の筒粥祭(つつかゆさい)は、2月14日夜から15日にかけて行われる豊作祈願の祭。祭事としては、まず拝殿前に大釜を据えて粥を煮る準備をする。夜半に神迎えのための行列が厳かに松林の道(神の道)を進んで、暗闇の海岸に出、波打ち際に設けられた祭壇に祝詞(のりと)、玉串を奉じて波の彼方から寄り来る神を迎える。そして、海水で浄められた洗米(せんまい)を神社に持ちかえり、境内斎庭(けいだいゆには)に設けられた湯釜で炊く。しばらくして紐でくくり束ねられた小さな竹筒100本余りを竿竹に吊るし、これを釜の中へ。引き上げた竹筒の中にどのくらい入っているのかが占いのポイントになる。

御穂神社(みほじんじゃ)は、静岡県静岡市清水区三保にある神社。式内社、駿河国三宮で、旧社格は県社。祭神は大己貴命と三穂津姫命の二柱。
大己貴命(おおあなむちのみこと)は、大国主神(おおくにぬしのかみ)とも言い『古事記』、『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔鳴尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。
須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後に少名毘古那神と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。
『古事記』によれば、少名毘古那は、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗り、鵝(ヒムシ)の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。『日本書紀』にもこれと同様の記述があるが、ミソサザイの皮の着物を着ている。
三穂津姫命(みほつひめのみこと)は、大国主命(大物主命)の后神として高天原から稲穂を持って降り、稲作を中津国に広めたと謂われる。后という漢字は正妻の意味。
大国主命の正妻といえば須世理姫神を思い浮かべるが、三穂津姫神は国譲り後、中津国の姫神が正妻であるのは信用ならぬと、国譲りの証と誓いの一つとして高天原より降ったという謂われもある。多くの妻を持った大国主大神の最期の妻であり、天津神と国津神を繋ぎ結んだ姫神である。

御田打や福の種播く福太郎   白兎

2022年01月07日 10時44分31秒 | 日記


御田打や福の種播く福太郎   白兎
おたうちやふくのたねまくふくたろう
三島御田打祭は新年の季語。子季語に、御田打(おたうち)、御田祭(おんたまつり)、三島祭。
正月七日に静岡県・三島大社で行われる豊年を予祝する田遊びの神事。農耕の過程を演じて豊作を祈念した。昔は参詣する人々もさまざまな服装に仮面をつけた仮装で市中を踊り歩き、たいへんな賑わいをみせたという。静岡県無形民俗文化財に指定されている「お田打ち神事」の起源は古く、平安時代ともされ、鎌倉時代になると盛んに行われたと考えられています。その後、室町時代には狂言形式の芸能として調えられたと考えられます。


白いお面を付けた舅の穂長(ほなが)がその年の恵方から登場し、黒いお面を付けた婿の福太郎とともに、苗代所の選定から種まき、鳥追いまでの稲作行事を狂言風に演じます。当日は、神事に続いて、紅白の小餅や種もみがまかれ、これらと共に「福」を授かろうと、大勢の参拝者でにぎわいます。画像出典:三島大社。

秣場も住めば都ぞ桜鍋     白兎

2021年12月30日 08時04分41秒 | 日記
秣場も住めば都ぞ桜鍋     白兎

まぐさばもすめばみやこぞさくらなべ
桜鍋(さくらなべ)は三冬の季語。子季語に、馬肉鋤、馬肉鍋、けとばし。
馬肉の鍋料理。味噌仕立てで、葱、牛蒡、蒟蒻などを添えて煮ながら食す。身体が温まる鍋料理の一つ。「咲いた桜になぜ駒つなぐ駒が勇めば花が散る」という坂本龍馬の端唄から桜は馬の隠語となっている。けとばしは馬肉の愛称。私が居住している静岡市葵区桜町は、もともと府中宿伝馬町の伝馬の飼葉を刈る草地で伝馬町新田と呼ばれていた。地名が正式に桜町になったのは平成元年である。

正月に 餅を搗かない 村もある

2021年10月07日 13時32分55秒 | 日記
松野城跡

所在  静岡県静岡市葵区松野別所平

歴史  『駿河記』に松野城の記述として「城山、別所の辺なり」とあり、城主として別所・ほつ川・川島の三氏の名を挙げているが、三氏の動向は不明である。
また、この松野城は安倍城の支城として機能していたとされるが、これもまた不明である。
写真の■川氏之碑の読めない字は「渤川・ぼっかわ」と読むそうです。

静岡市葵区松野の「別所平」という丘陵上には、古来、「松野城」という城郭が伝承されていた。

『駿河記』に、「城山別所の辺なり。里人云、むかし別所殿、川島殿、ボッカア殿とて三人の武士居城の地なり。ぼっかおとは里人の訛言にて誤りあるべし。武人の伝絶えて事蹟時代末詳」とある。

さらに、『駿国雑志』・『安倍郡美和村誌』等に「武田家領国の時、滅亡するものか、詳ならず」とあることは、どうも永禄12年(1569)、武田信玄の駿河侵攻に際して討たれたのか、また本地を離れたのか、安否を気遣った村人たちは正月に餅を搗くことなく食べないという習慣が現在もあるという。( 静岡古城研究会 水野茂氏の記述より原文のまま転用)

『駿河記』は文政3(1820)年に島田の桑原藤泰(黙斎)によって完成された地誌です。詳細な実地調査を繰り返し、丹念に考証して駿河全郡を記した地誌として位置づけられています。


渤川氏で検索したらこんな記事に当たりました。
執筆者:竹折直吉
書名・誌名:静岡県史 資料編24 民俗2
話者(引用文献):望月藤一(M40生)
要約:静岡市松野では「セッキの餅はヒゴトに祟る」といい、セッキ(正月)に餅をつくと祟りで火が出る、といってつかない。ついて大火が出たことがある。昔、この地を支配していたボッカーさん(渤川氏)が桶狭間の戦いに出陣する際、万一帰らなかったら無念を晴らすために正月の餅はつかないように、と言い残した。ボッカーさんは桶狭間で戦死したため、その供養で餅はつかない。

橡の実や円爾の郷に龍珠院

2021年10月05日 11時01分59秒 | 日記


橡の実や円爾の郷に龍珠院     白兎

とちのみやゑんにのさとにりゆうしゆいん

橡の実(とちのみ)は晩秋の季語。子季語に、栃の実。
栃の木の実。丸く厚い三裂する殻の中に栗に似た種がある。縄文時代から食用にしてきた。丹念にあく抜きする必要がある。今も栃餅や栃の実煎餅などにして食す。静岡市葵区栃沢は聖一国師円爾の生誕地。安倍川水系には、栃の平(大間)、栃木(長熊)、栃原(奥仙俣)、トチ平(黒俣)、栃沢(大川)、トチン沢(大原)など栃に関る地名が多い。画像出典:「自然風の自然風だより」

桐一葉落ちて豊家は滅亡す

2021年08月19日 17時02分38秒 | 日記
桐一葉落ちて豊家は滅亡す   白兎
きりひとはおちてほうけはめつばうす
桐一葉は初秋の季語。子季語に、ひとは、一葉、一葉落つ、桐の葉落つ、桐散る、一葉の秋、桐の秋。
秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の悟桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は、「淮南子・説山訓」に「一葉の落つるを見て、歳のまさに暮れなんとするを知る」を出典とするが、この句は、豊臣政権の五奉行の一人だった片桐且元が、淀君の不興を買い、解任された時、詠んだ句と言われている。桐とは豊臣家の紋所を指す。“桐一葉落ちて天下の秋を知る”自らの人生を桐の紋所にかけた片桐且元の絶望の深さが伝わってくる句である。

臨済宗妙心寺派の大鑪山誓願寺は、源頼朝公が両親の菩提を弔うために建立した寺院である。その後、戦国初期の「花倉の乱」によって焼失し、武田信玄公が臣下の穴山梅雪に命じて、臨済宗の寺院として再建した。

境内には、京都方広寺大仏殿の「国家安康 君臣豊楽」鐘銘事件で責任をとってこの地で自刃したと言われる、片桐且元公夫妻の墓が仲良く並んであります。5月~7月には、中庭にある古池で絶滅が危惧されている静岡県の天然記念物「モリアオガエル」が産卵する生息地としても有名です。

トンネルと呼ぶに些か疑問あり

2021年08月06日 12時44分28秒 | 日記
地名駅(じなえき)は、静岡県榛原郡川根本町地名にある、大井川鐵道大井川本線の駅である。島式ホーム1面2線をもつ、列車同士のすれ違いが可能な地上駅である。駅自体は無人だが、駅向かいのタバコ屋で乗車券を販売している簡易委託駅となっている。

2007年度の1日平均乗車人員は27人(静岡県統計年鑑による)。

駅北側(千頭駅側)には全長約7mの非常に短いトンネル(状の構造物、シュラウド)がある。川根電力索道用保安隧道と呼ばれている。
線路上をまたいでいた貨物索道から線路を保護するために建設されたが、現在その索道は廃止され、トンネル部分のみが残存する格好になっている。駅構内には、「日本一短いトンネル?」と称してこのトンネルの案内看板が立っている。駅南側(金谷駅側)にも索道からの落下物から保護するためのトンネルがあったが、こちら側は天井部分が切り崩され、側面の擁壁だけ残存している。

「日本一短いトンネル」は、JR東日本吾妻線に存在した、全長約7.2mの樽沢トンネルで、こちらも日本一短いトンネルと呼ばれることがある。
樽沢トンネルは、東日本旅客鉄道(JR東日本)吾妻線の岩島駅~川原湯温泉駅間の旧線上に存在するトンネルである。山の出っ張りを掘り抜いたもので、全長約7.2mの日本一短い鉄道トンネルとされていた。トンネルを含む廃線跡は、2020年(令和2年)7月中旬より「吾妻峡レールバイクアガッタン」のコースとして、足漕ぎ式トロッコが通過するアトラクション施設として利用されている。群馬県吾妻郡東吾妻町の吾妻渓谷と並行した位置にある。

川根電力索道(志太電力索道)とは、
正式社名 川根電力索道株式會社
本社 静岡縣志太郡藤枝町鬼岩寺177番地
創業当時の社長   笹野甚四郎氏。
昭和5年当時の社長 彭木(サカキ)嘉津馬氏。
昭和8年当時の社長 八木乙吉氏。
運転開始日 大正14年8月 区間は瀧澤(瀬戸谷)〜中平停車驛。
中平〜地名は大正15年開通。
地名から澤間間は昭和5年に開通。

大まかに言えば藤枝地方から千頭方面まで大井川流域の荷物運搬及び堰堤、‪發電‬所建設資材運搬、大井川鉄道建設資材運搬の為に建設された索道施設である。鉄道が開通後、列車の貨物扱いによる荷受減少により、昭和14年に廃止。因みに、川根電力索道は、物資運搬の貨物索道としては全国で最長を誇る整備であった。

閑話休題。

本文中にも「トンネル状の構造物、シュラウド」とあるが、シュラウド(英: shroud)とは、直訳では覆うもの、幕、という意味になる。
一方、隧道とは、① トンネル。② 棺を埋めるために、地中を掘り下げて墓穴へ通じる道。はかみち。であり、「隧」は、 ①みち。はか穴へのみち。 ②地中をくりぬいた道。トンネル。という意味の漢字である。
故に「シュラウド」と「トンネル」とは明らかに違うものである。写真でも解るようにほぼ平坦な茶畑の中にトンネルは不要である。

静岡は観阿弥陀仏最期の地

2021年07月01日 11時54分23秒 | 日記


静岡浅間神社(静岡市葵区)の楼門の傍らに「観阿弥の碑」が建てられています。世阿弥の記した『風姿花伝 第一 年来稽古条々』に「亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕る。その日の申楽ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。」とあり、浅間神社は観阿弥終焉の地とされています。


観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。
また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。
一方、1962年(昭和37年)三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見された播州の永富家文書を傍証に、この記載を真とする意見もあり、1975年に永富家子孫によって、伊賀市に観阿弥の妻(世阿弥の母)の彫像が立てられた。しかしこの文書の信憑性を巡っては議論が分かれており、この説は研究者の間では広く受け入れられているとは言い難い。

当地、静岡には秦氏の末裔が多く住んでいたということが地名などからも解る。つまり、麻機、服織、賎機などである。服部の読みは、はっとり、はとり、はとりべ、ふくべ、ふくい、はった・・などであり織物に由来することは紛れもない。

服部といえば著名なのは伊賀の服部氏である。伊賀服部氏に関連した史料・「伊乱記」(菊岡如玄)には「服部一族 呉服部、漢服部の二流あり、皆酒の君の末流なり」、「服部には秦漢の二流があり…中略…服部の元祖は酒ノ君なり」などと書かれている。
服部の一族である呉服部と漢服部の元祖(家系の最初の人)は酒の君(秦酒君)であるとはっきり書かれています。大酒神社の由緒「弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。」などの記述がある。
大酒神社(おおさけじんじゃ)は、京都府京都市右京区太秦蜂岡町にある神社。式内社で、旧社格は村社。
祭神は次の5柱。
主祭神
• 秦始皇帝
• 弓月王(ゆんずのきみ)
• 秦酒公(はたのさけのきみ)
相殿神
• 兄媛命(えひめのみこと) - 呉服女。
• 弟媛命(おとひめのみこと) - 漢織女。
広隆寺の縁起である『広隆寺来由記』(山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記、明応8年(1499年)成立)では秦の始皇帝の祖神とし、日本に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔、秦氏遠祖)が勧請したとする。伝承自体の真偽は明らかでないが、伝承に見えるように古くから太秦一帯を開発した秦氏の氏神であったと推測され、史書に見える秦酒公(はたのさけのきみ)と大酒神を関連づける説もある。創建に関して『広隆寺来由記』では、仲哀天皇(第14代)の時に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔、弓月君の父親)が「秦始皇之祖神」を勧請したことに始まるとする。

静岡には静岡市葵区建穂271に建穂神社(たきょうじんじゃ)がある。
当神社の創建時期は不明。当神社については、長く神仏混淆が続き、「建穂寺」抜きには語ることができない。元々、この地区は帰化人秦氏の一団が入植し、特に養蚕や機織に深い関わりがある土地であった。現在、「建穂」の南は「羽鳥(はとり)」という町名になっているが、本来は「服織」で、小中学校や郵便局にはその名が残っている。「類聚国史」(寛平4年(892年)成立)によれば、天平7年(735年)に藤原武智麻呂(不比等の長子で、藤原南家の祖)が私田5町歩を建穂寺馬鳴大明神に寄進したとあり、貞観元年(859年)には建穂馬鳴神社に正五位下が授けられた、という記事があるという。延喜式神名帳(延長5年(927年)成立)では、単に「建穂神社」となっているが、いずれも同じ神社とみられている。
秦氏が信奉したのが「馬鳴明神」とも「馬鳴菩薩」ともいう養蚕機織の神で、そこには神仏を分ける意識はあまり無かっただろうと思われる。「馬鳴(めみょう)菩薩」は、古代(2世紀頃?)インドの仏教僧侶で、説法が巧みであった。カニシカ王が深く帰依し、インド以外への周辺諸国に仏教が広がる契機ともなった。王の命により、飢えさせた馬に対して説法したところ、馬でさえ、餌を食べるのも忘れて説法に聴き入ったといい、馬が法を解したときにあげた声から「馬鳴」と呼ばれたともいう。しかし、これでは養蚕機織との関係が明らかでない。実は、馬と蚕が結びついたのは中国においてであり、詳述はできないが、日本の「オシラ様」のような伝説が中国にあり(「捜神記」など)、中国の俗信として「馬鳴神」は養蚕機織の神となったらしい。仏像としての「馬鳴神(菩薩)」は、二臂または六臂で、桑の木の枝や生糸の束を握り、白馬に乗っている形に作られる。
「吾妻鏡」(1300年頃?成立)の承元4年(1210年)の条に、駿河国建穂寺の鎮守である馬鳴大明神が戦乱を予言したという記事が見え、都にもその名は知られていたようである。
なお、祭神については、「建穂」の「建」の字から「建部」を連想して日本武尊、「穂」の字から保食神とする説などがあった。「建穂」という地名は、いわゆる「2字の好字」で、元はアイヌ語の「トキウ」=葦の生えた湿地、ともいわれ、「建穂」の文字には特別の意味はないようである。現在では、保食神(ウケモチ)を主神とする。

都田に石松最期の地蔵堂

2021年06月16日 15時50分19秒 | 日記
無事に金毘羅代参を終え帰途に就いた石松は久しぶりに遠州浜松小松村の七五郎を尋ね一泊の宿を請う。七五郎は石松の父が死ぬときに「七さん、石を頼んだよ」といったほどのしっかり者。七五郎は次郎長の身内ではないが郭縁の間柄で陰に日向に次郎長を支えてきた人物である。

遠州一帯で人望のないくせに狡猾な遺り口で縄張りを広げていた都鳥一家の吉五郎は石松が代参帰りに身に付けていた香典の預かり金三十両に目を附け騙し取る事を画策、石松は、その口車に乗せられて金を貸して仕舞う。約束の日に指定場所に出向くが音沙汰無く却って都鳥の差し金で若い者から闇討ちに合う。

石松の出身は当時の三州半原村にあり、代々庄屋も務めた家柄だったが、父親の代に自宅から火を出し、自宅は全焼、石松の母親(名:かな)と飼い馬は焼死した。父親は幼い次男の石松を連れて炭焼きの仕事をするために遠州森町へ来た。そして天宮神社の祭礼の日に迷子となり、地元の侠客・森の五郎に引き取られて少年時代を森町で過ごす。その石松が起こした喧嘩の仲裁に清水次郎長が割って入るが、仲裁人の次郎長にまで食って掛かった。次郎長は手に負えない石松を引き取り自分の子分とした。

小松村のはずれの閻魔堂の前で都鳥一家など十人に欺し討ちにあった森の石松は血だらけになりながら兄弟分の七五郎の家にやってくる。七五郎は石松を押し入れに隠すと、女房のお民に「石松の代わりに都鳥一家に斬られて死ぬので縁を切る」と語る。しかしお民は「惚れて女房になったんだ。一緒に死のう」と笑って答える。ほどなく殺気立った都鳥たちがやってくるが、七五郎もお民も落ち着き払ってあしらい、都鳥たちの気勢をそぐ。

お民の動じない姿を見た都鳥たちはあきらめて帰って行く。石松が「浜松で医者にかかる」と言い出したので、七五郎は付き添っていこうとする。しかし石松はそれを断り、浜松には行かずに閻魔堂に引き返したところ、「石松は卑怯者だ」と都鳥たちが話しているのを耳にし、我慢がならずに姿を現して斬殺されてしまう。

森の石松を殺した都鳥たちは三日後、天竜川端に住む本座村為五郎を訪ねた。為五郎は石松の死をすでに知っていた。そして都鳥一家の仕業であることを伝えに小松村七五郎が次郎長のもとに向かったと語った。と、その時、次郎長一行がやってきた。為五郎は都鳥たちを物置に隠す。こうして都鳥に味方するのかと思われたが、石松の死を次郎長に語り始める。

以上は浪曲のあらすじである。写真は瀧本美智子さん撮影。

小松村おその
1823-1905 幕末-明治時代の女性。
文政6年生まれ。遠江(とおとうみ)(静岡県)横須賀(よこすか)の博徒小松村七五郎の妻。清水次郎長(じろちょう)の子分、森の石松をかくまったことで知られる。浪曲での名は「お民」。明治38年死去。83歳。


香勝寺100万本の桔梗咲く

2021年06月16日 15時46分13秒 | 日記
 静岡県周智郡森町草ケ谷968。遠州三十三観音霊場 第三十二番札所 曹洞宗鹿苑山香勝寺は、昭和61年7月、住職が白龍頭観音から、《境内に2万株以上の桔梗を植えると、参拝の方々に心身に清らかな気が充満し、安らぎの世界に至る事ができる》とのお告げを受けた事から植栽に励み、今では遠州の小京都森町の香勝寺は日本三大桔梗寺と言われる様になった。現在は、15種類4万5千株、100万本以上の桔梗が咲き、初夏6月中旬より園内は青紫色一色に染まる。
 桔梗の他にも
【早春】ロウ梅・梅花・椿・スイセン・四季桜
【春】レンギョ・桜・四季桜・枝垂れ桜
【初夏】ききょう・あじさい
【夏】ききょう・オミナエシ・ナデシコ・百日紅
【秋】萩・ススキ・藤袴・葛
【冬】四季桜
などが境内に咲く。

 香勝寺は天文14年(1545)2月18日、今から476年前に一ノ宮領主、武藤刑部少輔氏定公が寺領を寄付。法名は香勝寺殿興巌道清大居士、一ノ宮宮司で一宮領主である。天正9年3月22日高天神城落城の日に戦死。
 
 崇信寺八世の弟子宣翁全忠大和尚を歓請し開山。札所本尊白龍頭観世音菩薩は、大正時代の中頃、草ヶ谷の観音坂をある行者が通りかかった時に、「この土中には観音さまが埋まっておられるので、すみやかに掘り出して供養なされるがよい」と申された。

 武藤家の初祖は武藤五郎と称して坂東の武藤の分派にて、長兄は武藤太郎頼忠(武蔵国)、次兄は武藤小次郎頼資にして頼朝の臣にして九州の少貮氏となる、元寇の乱に奮戦せし人なり、三男の五郎は頼朝の臣、安田義定の五家老の一人にして、義定が治承4年遠江守に任ぜられし時此処一宮領の代官(目代)として当地に住み、安田遠江守義定息の些細な罪により鎌倉に呼びつけられて建久5年8月19日に梟首せられた。

 慶長6年8月24日付けにて寺領十六石あるを認めて御朱印申請可出当役所に預かり置き申し者也仍如件伊奈備前守忠次(花押) 黒印書あり。

 慶長9年8月8日井出伝衛門(印) 御朱印高十六石地所再確認書あり。当時山主は三世秀虎和尚也。
境内地底38,000余坪(字菖蒲ヶ谷が全部なり)総建坪630余坪(絵図面有)等々の記録がある。詳細は香勝寺ホームページ参照。写真は瀧本美智子さん撮影。