6月27日(土)晴れ
この日は夕方まで仕事。5時半に家を出て、一度だけ仕事をご一緒したライターの友人のシャンソンライブへ行く。玉田さかえ 海江田文 ジョイントのシャンソンライブ。
阪急西宮北口から岡本駅で下車。車通りの少ない道に、パン屋や総菜屋、洋服、雑貨の店がならび、イタリア料理の食材の店や日本茶カフェ、貴味蛸、本屋など、懐かしい通り。Nが小学生の頃に、梅林公園へ花を見に行ったり、台湾飲茶の店へ行ったりと、よくここを歩いたことを思い出す。学生街らしい、のんびりとした街。
阪急の摂津本山駅すぐのサンジャンが会場。私たちはマスクをして、用意してくれていた一番後ろのバーコーナーのカウンター席に陣取った。
「少し官能的に」というテーマ。海江田文さんの「澄んだ泉のほとりで」で幕開けた。
プログラム
1st
[海]澄んだ泉のほとりで 頭から足の先まで愛を感じます 逢引き 過ぎ行くはしけ
[玉]街 釣りが出来ます まるでお芝居のようね 水に流して
2nd
[海]眩しい陽射しの下で 行かないで
[玉]美しい夏の雨 朝日のあたる家
3rd
[海]ロコへのバラード 後朝にて 出逢いの星 ルナ・ロッサ
[玉]バルバラソング 夜明けのタバコ 愛してくれるなら キサス・キサス・キサス
シャンソンの世界は、一曲一曲の中にドラマが刻まれていて、語り聴かせるように進むのだが、メランコリック、あるいは自虐的な歌も多い。朝起きた時から、もうたそがれている。
喜びの唄のなかにも、深いところでは孤独や哀愁にいきつく井戸とつながっているのがシャンソンだ。あるいは生きるエネルギーにも。人生の賛歌だ。
クラシックなピアノも緩急をつけて。激しい旋律。うつくしい。
彼女らは、普段の会話をしている時とステージに立った時には違う女だ。年齢を飛び越えて、とても華やかな美女となって歌う。海江田さんのシャンソンライブは、彼女の訳詞の解釈がすばらしい、(さすがコピーライター)。
昔はソプラノの声が自慢だったそうだが、一時、声をうしない、トレーニングの末に、ようやくもどってきたものの、以前のような声質でうたいあげることはできなくなったと嘆いていた。
唄の心は、新しい声の中にも脈々とある。誰にも真似のできないアルトを手に入れたのだから、と少し心配しながらステージをみつめる瞬間も。
今回の演目、3ステージは情熱的で特に良かった。日常と離れてフランス映画をみているようだった。玉田さかえさんのくぐもった声と、魔性(妖艶)の歌い方にも惚れ惚れした。
途中、海江田さんがステージとステージの間にお喋りにきてくれる。この人の十八番は「酒飲み」ヴィアン、ボリスである。
20代のNを誘えたのは収穫だ。彼女はシャンソンライブが初めてで、かなり影響をされたみたい。
帰る夜道で、暗く広い道路をあるきながら、星空のほうに顔をむけて唄っていた。帰宅してからも、わたしの部屋へ来て、(明日提出の原稿を書いていた)覚えているフレーズを熱唱した。「愛してくれるなら」がお気に入りのよう。
この夜。今までみたことがないおしゃれな夢をみて目が覚める。すべてモノクロ。シャンソンの世界が私の潜在意識のなかに深くきざまれたのだと思う。写真家のサラ・ムーンが撮ったみたいな画のなかにいた。