どちらかと言うとワーカー・ホリックだった夫が
呑気に朝の連ドラなど観たのは、後にも先にも病に伏せっていた時だけ。
一緒にほぼ全部観た。
「元気になったらちゅらさんの海へ行こうね」と言うのもお決まりだった。
姑の家を片づけていたら私の新聞投稿切り抜きが出てきた。
47歳の10年前の私だ。四十九日も来ないうちだと記憶する。
これを読んで知ったと、亡夫の同級生が晩秋に弔問に来られた覚えがある。
テーマ「一人旅」に投稿したもの。
【ちゅらさんの海へ行きたい】
夫は55歳で独り旅立った。
20歳すぎの学生の子どもたちと私を残して。
少し高いところにあるお骨を
「あなたが居なくなってなんと面倒な初めての仏事。早よう出てきて手伝うて」
「だれが逝きたいかよ」
と返事が返ってきそうだ。
命のはかなさ。
体内に巣くったがん細胞が思ったより早く夫を連れていってしまった。
再発は分かった6月から夫の手足になることだけを考え、私のことは忘れていた。
これから私の前に続くのも一人旅。
しばらくは現実を忘れ、本物の一人旅に出かけてみたい。
病室でいつも見ていた「ちゅらさん」の海に。
涙を捨てて、私自身を取り戻すために。
なぁ~んて、カッコつけて書いてしまったけれど、
実際には、葬儀直後に
夫の看病をするために注射で誤魔化して子宮筋腫が急に悪化。
手術をする羽目になった。
学費の要る残された子供への事などで不安もいっぱい。
術後の回復ままならぬうちから、
とにかく誘われたパート勤めに出始めた。
心は旅と休養を欲していたのかもしれないが、おっちょこちょいは止まらない。
ぼんやり専業主婦から、精神不安まっ只中での
慣れない販売の立ち仕事。
心身ボロボロになるのに半年もかからなかった。
一旦、仕切り直し。
とにかく仕事を辞めて、ようやく沖縄へ旅をする気になった。
旅立ちは一人だけれど、ちょうど友人が夫の転勤で沖縄に住んでいた。
友人を訪ねる旅でもあった。
そんなこんなでその半年後、ばっさばっさと髪が抜け始め
止まることを知らず丸坊主。体毛という体毛を失った。
まつげの最後の1本が抜けた日は、さすがに鏡の中の自分が涙でぼやけた。
帽子をかぶり、ひどくなってからはカツラを被り
単発で人からお誘いがかかる仕事へ出て、
さらに、きちんと介護の仕事に就こうとヘルパー2級講座へも通っていた。
脱毛は円形脱毛の酷いものだと言う診断だった。
結局、原因は不明。
一時、血流が止まって毛根に血が通わなくなったんだろうと、
心療内科から紹介された皮膚科で言われた。
子宮摘出のためのホルモンバランスの崩れも加わったのかもしれない。
心療内科では投機芍薬散包という更年期の薬が処方されていた。
夫を亡くして後の2年間は、いま思っても赤面もの。
私の精神状態はマトモではなかったと思われる。
多くの方々に心配してもらい、甘え、
無理難題をきいてもらってなんとか自分を立てていたような?
ハチャメチャだった。
ご迷惑をかけた皆様、ごめんなさい
仕事もいっさい止めて、家でリラックス。
やがてひよひよと発毛。
また半年間限定の仕事が来た。
ひよひよ毛は白髪メッシュだった。
堂々とそのひよひよ白髪メッシュのベリーショートで仕事に就いた。
その仕事が終わった頃、初めて美容院へ行けるほどの長さに髪が成長していた。
いよいよ普通のショートカットに髪を整えて、介護の世界へ足を踏み入れた。
そして…軟弱にも足腰を痛め、
現場からケアマネ職へと移り現在へ至る。
あれから
気も毛も強い。
一旦、禊が済んだ?もしかしたら、夫共に一度死んだかな???
沖縄に居た友も、今は私と同じ寡婦。
あの時に夫婦揃って歓待してもらった、あのダンナ様も癌に罹患。
あんな思いは私ひとりでたくさんだと思ったのに…
神様は、時に意地悪ではなかろうか?
≪追記≫
たみちゃんから夫の事を語ってとリクエストがあり、
物を丁寧に仕舞いこむ姑の習癖が回顧のスイッチを押しました。
脱毛についてはカテゴリー「円形脱毛」に
2005年秋から2006年新春までの記事には
常勤ヘルパーしつつの介護福祉士とケアマネの試験奮闘?が
駄文にて書き連ねてあります。
思うに、
2004年9月
いったん全部抜けた毛がひよひよと生え始めたリラックスタイムに
このブログは始まったみたいです。
にほんブログ村
来られたお印にふたつクリックしていただくとうれしいです=^_^=
呑気に朝の連ドラなど観たのは、後にも先にも病に伏せっていた時だけ。
一緒にほぼ全部観た。
「元気になったらちゅらさんの海へ行こうね」と言うのもお決まりだった。
姑の家を片づけていたら私の新聞投稿切り抜きが出てきた。
47歳の10年前の私だ。四十九日も来ないうちだと記憶する。
これを読んで知ったと、亡夫の同級生が晩秋に弔問に来られた覚えがある。
テーマ「一人旅」に投稿したもの。
【ちゅらさんの海へ行きたい】
夫は55歳で独り旅立った。
20歳すぎの学生の子どもたちと私を残して。
少し高いところにあるお骨を
「あなたが居なくなってなんと面倒な初めての仏事。早よう出てきて手伝うて」
「だれが逝きたいかよ」
と返事が返ってきそうだ。
命のはかなさ。
体内に巣くったがん細胞が思ったより早く夫を連れていってしまった。
再発は分かった6月から夫の手足になることだけを考え、私のことは忘れていた。
これから私の前に続くのも一人旅。
しばらくは現実を忘れ、本物の一人旅に出かけてみたい。
病室でいつも見ていた「ちゅらさん」の海に。
涙を捨てて、私自身を取り戻すために。
なぁ~んて、カッコつけて書いてしまったけれど、
実際には、葬儀直後に
夫の看病をするために注射で誤魔化して子宮筋腫が急に悪化。
手術をする羽目になった。
学費の要る残された子供への事などで不安もいっぱい。
術後の回復ままならぬうちから、
とにかく誘われたパート勤めに出始めた。
心は旅と休養を欲していたのかもしれないが、おっちょこちょいは止まらない。
ぼんやり専業主婦から、精神不安まっ只中での
慣れない販売の立ち仕事。
心身ボロボロになるのに半年もかからなかった。
一旦、仕切り直し。
とにかく仕事を辞めて、ようやく沖縄へ旅をする気になった。
旅立ちは一人だけれど、ちょうど友人が夫の転勤で沖縄に住んでいた。
友人を訪ねる旅でもあった。
そんなこんなでその半年後、ばっさばっさと髪が抜け始め
止まることを知らず丸坊主。体毛という体毛を失った。
まつげの最後の1本が抜けた日は、さすがに鏡の中の自分が涙でぼやけた。
帽子をかぶり、ひどくなってからはカツラを被り
単発で人からお誘いがかかる仕事へ出て、
さらに、きちんと介護の仕事に就こうとヘルパー2級講座へも通っていた。
脱毛は円形脱毛の酷いものだと言う診断だった。
結局、原因は不明。
一時、血流が止まって毛根に血が通わなくなったんだろうと、
心療内科から紹介された皮膚科で言われた。
子宮摘出のためのホルモンバランスの崩れも加わったのかもしれない。
心療内科では投機芍薬散包という更年期の薬が処方されていた。
夫を亡くして後の2年間は、いま思っても赤面もの。
私の精神状態はマトモではなかったと思われる。
多くの方々に心配してもらい、甘え、
無理難題をきいてもらってなんとか自分を立てていたような?
ハチャメチャだった。
ご迷惑をかけた皆様、ごめんなさい
仕事もいっさい止めて、家でリラックス。
やがてひよひよと発毛。
また半年間限定の仕事が来た。
ひよひよ毛は白髪メッシュだった。
堂々とそのひよひよ白髪メッシュのベリーショートで仕事に就いた。
その仕事が終わった頃、初めて美容院へ行けるほどの長さに髪が成長していた。
いよいよ普通のショートカットに髪を整えて、介護の世界へ足を踏み入れた。
そして…軟弱にも足腰を痛め、
現場からケアマネ職へと移り現在へ至る。
あれから
気も毛も強い。
一旦、禊が済んだ?もしかしたら、夫共に一度死んだかな???
沖縄に居た友も、今は私と同じ寡婦。
あの時に夫婦揃って歓待してもらった、あのダンナ様も癌に罹患。
あんな思いは私ひとりでたくさんだと思ったのに…
神様は、時に意地悪ではなかろうか?
≪追記≫
たみちゃんから夫の事を語ってとリクエストがあり、
物を丁寧に仕舞いこむ姑の習癖が回顧のスイッチを押しました。
脱毛についてはカテゴリー「円形脱毛」に
2005年秋から2006年新春までの記事には
常勤ヘルパーしつつの介護福祉士とケアマネの試験奮闘?が
駄文にて書き連ねてあります。
思うに、
2004年9月
いったん全部抜けた毛がひよひよと生え始めたリラックスタイムに
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