陽だまりのねごと

♪~思いつきひらめき直感~ただのねこのねごとでございますにゃごにゃご~♪

麻生氏「さっさと死ねるように」

2013-01-21 22:10:14 | 終末医療
麻生氏「さっさと死ねるように」 終末医療巡る発言撤回(朝日新聞) - goo ニュース

終末医療の問題は単純ではないし、個々の思いも違う。
『さっさと死ねる』という表現も命を軽視しているようで、気持ちのいい表現ではない。

自分がどういう立場に居るのかがまるで分かっていない。
たくさんの医療費が必要な人がどういう気持ちでこれを聞いているのか想像すらできないらしい。
高額医療費を使うなと言っているに等しい事にお気付きではなかったのだろう。

過剰医療ノーサンキュウと言いたかっただけだと良きに解釈しておこう。
想像力が欠如していただけってことで。


夫は誰でもいつかは必ず迎える死であると、自ら教えて私のもとから去った。
夫の死が真剣に自分の死について考えさせた。
以前にも書いたが、
夫の死後、日本尊厳死協会会員証を携帯している。

   

裏には以下の事が書いてある。


尊厳死の宣言書(リビング・ウィル Living Will)


私は、私の傷病が不治であり、且つ死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁 者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言いたします。
この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。
従って私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の 文書を作成しない限り有効であります。

(1)私の傷病が、現在の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断された場合には徒に死期を引き延ばすための延命措置は一切おことわりいたします。

(2)但しこの場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。そのため、たとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。

(3)私が数カ月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持措置をとりやめて下さい。

以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げる とともに、その方々が私の要望に従って下さった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。















    本日の歩数 10,322歩

                     


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自宅での看取り

2012-01-31 22:32:51 | 終末医療
今晩のクローズアップ現代では自宅での看取りが取り上げられていた。
『あなたの自宅をホスピスに~地域で支える最期~』

病院で死ぬということ
クリエーター情報なし
主婦の友社


 ↑ の著者 山崎章郎医師の取り組みが紹介された。

夫が末期がんと分かった時、私は最期は家でと望んだ。
夫は病状が進んだ時、家では『怖い』と言った。
10年前の事。
医療の接点は訪問看護のナースに電話で相談することだけだった。
最終的に病院を受診して欲しいという答えが返ってきては、
一人で歩行がむつかしい痛みのある夫を病院を連れては往復した。
末期がんに介護保険適応以前のこと。
介護タクシーなどあったかなかったか知りもしなかった頃のこと。

そして一旦帰れた自宅に1ヶ月と居ることなく、最後の入院となった。
家を出る時、夫が振りかえって言った言葉は今も忘れられない。

  『もう帰ることができないね。見納めだ。』

こういう地域ケアがあったなら、
あんな思いをしなくて済んだのにと、こんな特集を見る度に思う。

実際にウチの事業所でもターミナルの利用者が増えている。
まずは支える往診可能な医師の確保から始まる。
この辺りから大難産で最終的に病院搬送となる結末が多い。
手さぐりで綱渡りと言うのが正直な現状だ。

H24年度4月介護保険の改正に見なれないサービス名があった。

  複合型サービスっていったいなに?

改正について、仕事の合間に読んで目が止まった。
現行の小規模多機能に訪問看護がくっついた、より医療が充実したサービスとして新設されるらしい。
まず医師、それから看護師とスタッフの確保が必須となるが、果してスタッフが集まるだろうかという懸念をもった。
介護事業で必要な看護師の不足は介護スタッフ以上に深刻で、特にデイサービス。
報酬の低さで介護より医療現場を選択されてしまうのだ。

そして、現行の小規模多機能自体が残念ながら、
各中学校区に一つと言う当初のもくろみ通りに普及していないという現状もある。
利潤というところではっきり見えてこないので、開設をためらう傾向が強かった。

小規模多機能とは地域密着型のサービスで
訪問介護+デイサービス+ショートステイとまるごとなんでも使えるまことに便利なサービス形態を持つ。
ちまちまと居宅サービス計画などという一番多い方法よりも
よっぽど良いと思うだけれど知名度も利用も少ない。

ここを紹介するということは居宅ケアマネの手を離れて、小規模多機能にすべておまかせ、
入所と同じ含みになるので、
お客を失うに等しいこの制度を
正直なことろ積極的に我ら居宅ケアマネがPRしない事も普及しない一因と言えなくもない。


クローズアップ現代で映し出された理想の実現に、
この複合型サービスはぴったり充てはまる。
訪問介護+デイサービス+ショートステイに訪問看護に医師の支え。
もう言うことはない安心感がありそうだ。

しかし、実現までのハードルの高さは並みでない気もし、
絵に描いた餅?のおそれも無きにしも非ずではあるけれど、
少しづつ少しづつ理想型が現実のものになってきている兆しが見えると思いたい。

夫の死から10年。
今ならもっと何か出来た?
当時、数少ない緩和ケア病棟での最期はあれはあれであの時、最善の選択だったのだ。








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尊厳死への動き

2011-12-09 05:08:42 | 終末医療
終末期の人工栄養補給、中止可能に…学会指針案(読売新聞) - goo ニュース

本来、子供の治療のために始まった胃ろうと聞いた。
栄養が直に胃に入るから、栄養は行き届く。
高齢者の場合
嚥下困難で誤嚥性肺炎を引き起こしやすい状態になったら、
ためらうことなく、いとも簡単に胃ろうの話が出てくる。

   『介護もしやすい』

なんてことまで付加価値がついている。
誤嚥を気にしつつ、食事の介助をするよりは確かに介護の手間は減る。

元気になったら口からまた食べられるようになると説明もあるが
高齢者の場合、『また』がやってくる日はあまり聞かない。
誤嚥性肺炎前は、まがりなりにも歩けていた人が、
寝たきりとなり、認知症が進み、家族が分らなくなりと
肺炎が治った後、心身状況が悪くなるケースもある。

それでも『治療はもう終わった、後は介護です』と
病院から退院を促される。

そして病院から、自宅での生活をよろしくと連絡がくる。
私たちの出番だ。

訪問看護、訪問介護と目いっぱいの介護サービスを使うことになる。
胃ろうの人を受け入れてくれるデイサービスもあるにはある。
あるにはあるが、日中全日は介護保険限度額の壁があって使えない。

介護保険限度額いっぱい使っても、
そうとうな家族の介護力が要求される。
その介護保険の1割負担もきびしい家庭もある。

介護力のない家族の場合、
退院と同時に入所の施設をさがしに右往左往となるしかない。

往診可能な在宅診療をしてくれる医師探しも、実際難航する。

こういう周りのあわてぶり中、
ご本人の気持ちは果たしてどこにあるのか?

元気で物言える時には
人の世話に極力なりたくないと聞いていた人であっても、それとはまったく違う展開になる。

PPK(ぴんぴんころり)なんて言葉が広まったり、
あっちこっちにぴんころ地蔵があったりするのは
誰しも寝たきりで長らえたいとは思わない多くの気持ちの表れだろう。


続いて出たニュース記事↓

尊厳死、法制化の動き 延命回避の医師免責 議連が骨子(朝日新聞) - goo ニュース


治す医療は大事だけれど、
誰にも等しく死は待っている。

進歩した医療がどう死に向き合ってゆくのか?
治す医療一辺倒が現実問題をややこしくしてきた気がする。









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尊厳死協会の会費

2010-04-13 06:42:58 | 終末医療
kururuさんのブログを読んでいて思い出した。
緩和ケアで静かに呼吸が止まった安らかな夫の死と
電気ショックをなんどもされて、体が何度も跳ね上がった後に最後を迎えた父の死とが頭を巡り
尊厳死協会』には加入した。
何年か毎年送られてくる会費の振り込み用紙で年額3000円払ってきた。
一時、無職だった去年、か細い遺族年金で食べて行く決意をしていたから
死ぬまで払い続けるのかな?と言う疑問がふっと浮かんで支払いをパスした。
パスしたけれど会報はずっと送られてきていた。
今年は2年分の会費請求が届いた。
3年支払わないと退会の意志と理由を聞いてくると説明も同封されていた。

   尊厳死協会に入っているから守られる尊厳死なのか?
   協会に入っていなくても、自らの意志表明だけでも構わないのではないか?
   子供など家族にしっかり頼んでおくことでも大丈夫ではないか?

延命拒否は息子、娘に常日頃話してある。
運転免許証と日本尊厳死協会の会員証と臓器提供カードは一緒にいつも携帯してはいる。
会費くらい払えばいいのに。
働いている今はそうこだわる金額でもないだけど、先ではやっぱり年金生活者だし
実際に、その意志が確かめられる時は会費うんぬんとは言っていられない状態だろうとも思う。
活動を応援する意味での会費納入は構わないと思う。
世の中も少しずつ尊厳死について考えてきている。
協会の啓蒙活動などありがたいと思うが、会を積極的に応援する気持ちは?
もう一年自問自答してみようか?

こういうのはパッと燃えて、まいど尻つぼみの私の性格によるところも大きい


【二本の木】 互いのがんを支え合い共に生きた夫婦の愛の日々 

2010-01-31 06:10:28 | 終末医療
夕暮れの無音の家に見るとはなしテレビを点けた。
スイッチを入れると煩くないお決まりのNHK。
竹下景子と片岡仁左衛門の二人で朗読をしていた。
「聖路加病院緩和ケア病棟」の言葉に惹かれて座り込んで見始めた。
亡夫の最後もまた地方にある緩和ケア病棟だったのだ。

癌の闘病記を朗読しているものだった。
私は闘病記が好きでない。
思い出すことが多すぎるし死で完結するからだ。
帰らぬ人を思い出させる余計なツールは避けるに限る。

それでも目が離せなくなり、話にのめり込んでいった。
単なるドラマ仕立てやビデオでなく朗読だったことが集中させてしまった。
妻と夫が綴った日記の朗読だった。

   聖路加から帰りたい家で暮らしたい。
   もう一度二人で暮らしたい。

想いを叶えるべく家の改修をして帰宅する。
住宅改修の方法、介護の方法など職業意識からも集中して見る。
末期がんの人も今は介護保険の適用になっている。九年前の夫の時はなかった。
家で過ごすため必要な品は死が分かっているだけに当の夫が高額な物を嫌った。
一番物入りな大学生二人を残しての逝く自分に使うお金を惜しんだのだ。
ここでは電動ベッドと天井から床へ支えの手すりがレンタルされ帰宅を待っていた。
訪問ヘルパーが来るケアマネージャが話に来る…
明確なサービス内容まで話になかったが、介護保険がしっかり利用されている。
社会保障は一歩一歩整ってきてはいるのだ。

やがて介護する夫に疲れが出てくる。
介護ストレスからか胃がんが見つかる。
お互いにお互いを双方で辛そうと思いやる言葉に朗読している二人の声が震え、涙がこぼれる。

やがて治してくれない医療に見切りをつけて代替民間療法やら『末期がんが消えた』という話を漁る。
我が家でもとことんやった。
代替治療のために聖路加から土佐清水のに移る。
お孫さんが尋ねて来るシーンには写真や息子さんが撮られたビデオが使われた。

脳に転移。
ガンマナイフ治療…
自宅での生活をいよいよあきらめて、聖路加へUターン。
最後の日の家族で囲むごちそうが肉魚なしの野菜ちゃんこ。
生きたい治りたい思いが『肉魚なし』に込められている。

最後の最後の眠ってしまう、もう意志が表わせなくしてしまう状態へと移行させる決定は
患者本人の意志が明確な時にされた。
本人が「痛いからもういい」と懇願してなされた。

亡夫の場合、医師から聞かれた私がした。
夫は前夜混迷状態で、癌の痛みが取ってあるので、動かない足を忘れて上半身で暴れた。
自分の置かれている状況が判断できなくなっていていたのだ。
肝臓を冒されて…脳まで…あまりにむごい一夜だった。
翌朝、薬で眠っている夫からもう覚醒する薬を中止することを医師に促された。
半身で起きて立とうと暴れる事を奪う決定を私がした。本人はどう思っていたのか?
その時間もわずか数日のことではあったろうけれど、いつまでもちくんと胸を刺す。

緩和ケアにおいても医療という人為的なものが作用しなければいけない。
進化してしまった人間の哀しみを感じる。

最後まで聞こえると言う耳に

   明るいほうに進んでゆきなさい!
   輝く光の方に行くんだよ

半年後に看病していた夫も癌で亡くなったところで話は終わった。
妻の介護や病状進行についてが主で、この夫の病について詳しい話は割愛されていた。
夫婦で骨を混ぜてりんごの木の元へ撒いてもらうとか。
いい話だった。いい夫婦の話は沁みる。

9年も長らえている私。
あの時一緒に死んだ気がしたが、現実はままならない。
子たちも巣立ち、とうとう正真正銘ひとり。4人で暮らして居た家はスースーする。
夫が治りたい一心で始めた玄米食を、今度は私の健康維持のために復活した。
たった玄米1合でも多い。

昨日の新聞やネットで確認すると
放送は9日の再放送。
NHKの元ディレクター小沢爽さん千緒さんの死後、
近しい人に配られた自費出版から掘り起こされた番組だそう。
朗読や家族写真、ビデオ、残された病棟日記を映すなどの構成が、
真実がより真実味を帯びて感じられたように思う。


死んでしまうということ

2009-10-04 20:22:55 | 終末医療
最近、亡夫会社近辺に行く用事があった。
何度もガンの骨転移の夫を連れて行った道なのにすっかり迷子になって辿りついた。
8年前の記憶はもう危うい。
夫が身骨そそいだ、ひょっとすると命を縮めたかもしれない会社は
夫亡き後も以前と変わらないむしろ賑々しい雰囲気でそこにあった。
人ひとり居なくなったところで何の変化もないものらしい。

用事はおくやみ。
告別式に間に合わなかったから骨揚げが済んだ頃合いを見て訪ねた。
自宅葬の後片づけ途中はまるで引っ越しの最中の様。 親族の方がひとり留守番で居られた。
一旦帰ってお寺にお骨を持ってお参りされているとのこと。
あわただしい間の悪い時に来てしまったもので、ごあいさつだけして失礼した。
昨夜、喪主から会えなくて残念と電話がかかってきた。
故人は長く7年間人工呼吸器だったとのこと。
血圧が下がってもう回復が見込めないと判断があって外してもらったと淡々と語られた。
もしかして人工呼吸器に繋がれなければ7年前に亡くなっていたってこと?

日本尊厳死協会から送られてきた小冊子に、
遺漏にして2年生きるが良いか?食べられなくなって2ヶ月が良いか?
という問いかけが載っていた。

相撲協会のご意見番
内館牧子の艶談・縁談・怨談
内館 牧子
潮出版社

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の中に延命について書かれている箇所があった。

  【第20章 延エン プロレスの神様はこう死んだ】

まったく私は知らない世界なんだけど、神様とは大プロレスラー カール・ゴッチ。
2007年7月 82歳で大動脈瘤破裂で亡くなったそう。
週刊プロレスに臨終に立ち会ったプロレスラーのコメントが出ていたとある。

  最初、病院に運ばれ手術された。病院は延命装置を施した。
  術後は1回だけ口を開いただけで2週間経過。
  彼は晩年好きなものが幾つかあった。
  葉巻とワインと時に強い酒シュノボビックと少しのトレーニングと美味しい食べ物であった。
  それがないならノーライフと言っていた。 
  医師にはフィニッシュをお願いしたと。

一旦付けた延命装置を止める医師は殺人罪に問われたりする。
日本では友人知人のフィニッシュを聞いてくれるだろうか?

母が毎度薬を飲み忘れるのを管理している妹に注意されてぽつんと言った。
   『薬を飲み忘れても そう長く生きるわけじゃないしね。』

今年土に還ったふぃんふぃんは薬やら入院やら最後は毎日点滴やら治療を何年もした。
猫だから治療の全部を嫌がった。
ちゅんちゅんはだんだん元気がなくなって痩せてきている。
一時はふぃんふぃんと一緒に抗生物質を飲み続けていた。
ちゅんちゅんは口内炎で口が痛い所為もあり猛烈に服薬を嫌う。
押さえつけて必死で口に放り込んでもこっそりペッと吐きだしたりする。
なんとか食欲は保って排泄もちゃんとあるから、獣医さんのところに行くのをためらっている。

自然に死ぬってどういうこと?
昨今は、人間も猫もなかなか自然には死ねない気がする。

がん患者の思いから生まれた 『一粒の種』

2009-06-25 23:34:02 | 終末医療
一粒の種


今日、ショッピングモールのBGMにこの曲が流れていて思わずハミング。
新聞記事で知って、急いで携帯にダウンロードして覚えるくらい聞いている。
沖縄発、先日NHKでも取り上げられていたしだんだんメジャーになってきつつあるっぽくって喜ばしい。

ついつい聖書の「一粒の種も死なずば生を得ず」と言う言葉とオーバーラップする。

歌っている砂川恵理さんは介護士さんだったとか。
歌が生まれた仔細は↓の通り。

**************************************

2004年、小さなメールマガジンに投稿されたポエム「一粒の種」。読んだ者の心を動 かし、歌になり、メディアでも取り上げられ、5年を経てここにようやくCD化される。 そのポエムは、がんでこの世を去った男性の最期の言葉を看護師がまとめたもの。「一粒 でいい。人間の種になって生きたい」。
その言葉を預かり、種を蒔こうと誓った看護師の思いで、このポエムはメールマガジンに 投稿された後、やがて同郷のシンガーソングライター下地 勇の手により楽曲となり、さらにその後輩の砂川恵理歌がCD化することになる。
生きることの愛しさ、そして、失った愛する人はいつも側にいることを教えられる、静か で強い命の唄。
「一粒の種」の売り上げの一部は「ホスピスケア研究会」に寄付し、がん のよりよい終末期医療の普及発展と患者とその家族の心身のサポートに役立てられます。

像の背中

2009-05-04 06:27:09 | 終末医療
象の背中 スタンダード・エディション [DVD]

ポニーキャニオン

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ひとり暮らしは音がしないから
時々、意味もなくTVをつける。
役所広司が出ていてなんとなく途中から見始めた。

   末期ガン余命半年宣告。

夫の場合、末期というか『完治はむつかしい転移ガン』という告知は受けたが
余命については原発ガンの主治医も緩和ケアの主治医も
「ひとそれぞれなので明言できない」と言った。

きっぱり治療をしない選択の勇気は簡単ではないと思う。
少し長く生きていれば有効な治療がその間に見つかるかもしれないと希望を持つ。
今の悪玉細胞をやっつける薬は健康な細胞にもダメージを与えるみたいで
ガン治療はとんでもなく辛い。
通院で事を済ます今の方法は入院治療が主流だった一時前よりも苦痛が大きく見える。
患者の不安も大きい。

治療しなければ元気で普通に過ごしている妹の乳癌治療は半年通院で続く。
ガンの様子を見ながら抗がん剤と放射線と…頭髪は抜け落ちたまま。
同居の母は元気になったり薬の副作用で苦しんだりする頼りの娘の様子にすっかり不安となり
完全に認知症となってしまった。
妹は「8割の安心が9割になる」との医師からの説明で治療を開始した。
リンパ節へ転移してゆく怖いガンだから不安は少しでも解消するつもりだった。
理系息子から副作用がきつい母へ
「延命か?」とすっぱり言われて傷ついた。
甥っこは母の辛さを見ていられなくて口にしたようだ。
連休に帰省などしたことのない子が今回は帰省している。

私が定年になる5年後に一緒に旅しようと言ったら
「5年後に生きているかしらん?」
と、妹は言った。
治療が同じ病の通院患者より過酷であることから悪玉の状態を読みとっているのだ。
妹の過心配だと思いたい。
最近、あれだけきつい性格だった妹がすんなり母の認知症を受け入れ
すっかり二人の関係は良くなっている。
母は妹を頼りきり天真爛漫さが増した。
病も悪くない。
連休明けから週1のペースで抗がん剤治療が再開。
この平穏は保たれるだろうか?

映画の話に戻るが
最後のホスピスはきれい過ぎやしないか?
窓から砂浜が広がる病室はまるで我が家のようにキッチンまである。
夫の居た緩和ケアも一般病棟よりゆったり作られていたけどあそここまで豪華じゃなかった。
思わず保険効かない?とゲスの勘ぐり^^;

何人ものナースに寝たままの湯できれいにしてもらった夫の最後となった入浴の後、
元来のんべぇの夫は『ビールが飲みたい』と言った。
主治医が「おくさん、早く買ってらっしゃい。」
あわてて買いに走って、夫はほんの一口。
残りは息子が引き受けた。

  『なんだか家に居るみたいだ。』

うまくいっている痛み緩和の中で夫はそう口にした。
ほんとうの家みたいは気持ちの在り方でもあるらしいとその時、緩和ケアを選択してよかったと思った。
確かに映画の病室は家みたいだった。映像にしてみればそういうことになるのかな?

その夜、意識混濁。痛みと覚醒が薬でコントロールされていたが、
大腿骨転移で歩けない身を忘れてトイレに歩いてゆくと暴れた。
上半身には強い男の腕力が残っていた。
翌朝、覚醒する薬が止められた。胆管にも転移していた。
薬が止められた瞬間からもう夫は物言わぬ人になった。
寝息ばかり。大きな口を開けて舌が沈下してもう二度としゃべることができなくなった。
口が乾かないようにスポンジ棒で口を湿らせるのが私の唯一の仕事。
耳は最後まで残って聞こえていると医師が言うから

 「ありがとう。おつかれさま。もう眠っていいのよ。楽になろうね。」

なんどもおかげで良い人生だったと繰り返した。
やがて痛みコントロールのモルヒネ抜かれ、水分点滴だけが最後まで残った。

妻以外の人を愛していた事実は墓まで黙って持って行くべきだろう。
愛人に会いたいと言ったり分骨まで兄に依頼する死場面は死んでゆくことですべてが許されると勘違いしていないか?
愛人と妻との対峙場面は淡々として逆に不気味だった。
夫婦として生きてきたことがまるで虚構だった事実を胸に妻は夫を心から悼むことができるだろうか?
寡婦となった後々まで嫉妬の業火が消えない人をケアマネの仕事で何人も見た。

がんに対するひとつの見方として警鐘に値するテーマだったけれど
イマイチきれいごとに作りすぎていないか?
1時間前に飲んだ睡眠薬が私に効いてしまって
意識が途切れて気がついたら終わっていたけれど、
たぶん、やすらかな最後に作られていたと思う。あの流れなら。

がん死は事故死や急病と違って、治療法も自分で選択して残された時間に何か出来る。死に支度が出来るのだ。
それは良いことなのか?悪いことなのか?

残された者としては充分な見送りが出来て、その事に悔いはない。
愛人が我が家では出てこなかったんで、きれいな思い出だけ残されている?

事故や突然死でいきなり逝かれて寡婦になった人より
ほのあたたかい夫との死への序走タイムがワンクッションになっているらしく
死のショックに大きな差を感じることがある。

うっかりガン死を考える休日になってしまった感じ。

自宅で死ぬためには そして 自閉症者と葬式と

2008-09-28 06:39:21 | 終末医療
病院の処遇が納得いかないから連れ帰った友人の父親が亡くなった。
1ヶ月前、もうケアマネを辞めることが決まった頃
在宅でなんとかなる方法はないかと電話があった。
がんとは言え年齢が90歳を超えている。
とりあえず介護ベッドが早急に要るということで
私ではケアマネがもうできないからと知り合いを紹介した。

みるみる病状悪化。こんなに早いお見送りとは想像していなかった。
せめてと葬儀に列席させてもらった。

最後は結局、病院で亡くなった。
治療途中で連れ帰った病院へは二度と行かないと言っていたから
別の個人病院だった。

在宅で看て下さる医師を近くがいないか
私からもテリトリーの訪問看護師さん等にリサーチした皆無だった。
近場にようやく20床あまりの緩和ケア病棟が出来ることになったけれど
この田舎では、在宅ホスピスの道のりは遠い。

葬儀はごくごく少人数。お身内とわずかに近所の人らしかった。
当の友人である彼女が居ない。
自閉症で施設入所している息子と幼稚園が一緒だった彼女息子さんも居ない。
亡くなった方の妻のも居ない。
介護施設に入所中と聞いた。
列席できないほど重篤な介護状態なのだろう。
知らせられないのかもしれない。

一番近しい人たちが不在で始まる読経。
葬儀の読経が半分くらい終わった頃
閉まっていた葬儀会場のドアが開いた。
彼女が息子さんの手をしっかり握って入ってきた。
最後尾に座っていた私の横にふたりして座ってきた。
土曜日で施設の外出日だから連れに行っていたと小声で言う。
おじいちゃんの最後のお顔をみせたくてとも言う。
彼女は亡くなった未明、病院のベッドサイドで泊まり込んでいたと聞く。
息子さんを預かってもらえていたから出来たこと。
彼女より私よりふた回りは大きな青年の手がしっかとお母さんと繋がれ、
彼にとっては彼女がこの世で唯一無比の人であると示していた。

片言とオーム返しの彼女の息子さんは
祭壇の写真を指さしてさかんに「おじいちゃん」と言う。
彼女が「おじいちゃんは天国へ行ったの」と小声で言い聞かせてても
「天国」「おじいちゃん」と読経しかしない部屋に彼の声が何度も響く。
しかも指を気ぜわしく動かして落ち着かない様子。
やがて彼女が一旦連れて出る。

最後のお別れの献花の時が来た。
私に回ってきたお花を急いで退出したふたりを探して渡してお棺へと導いた。

いつもと違うおじいちゃんに顔つきが変わった息子を連れて
結局、最後の出棺を待たずに彼女は一旦、家へ帰ると先に出てしまった。
直系の子供孫である人たちがお別れが充分できなくて、何の葬儀だろう?

「お宅はまだ良い」彼女の口から何度も聞いた。
私の息子は知能に遅れがないアスペルガーだから確かに話せる。
社会生活が営まれるかと問われれば
話せない彼女の息子と根っこは同じむつかしいものを持つ。

息子は父親の葬儀の最後に親族を代表して会葬のお礼を読み上げた。
母のレクチャー付き文章であるけれど、
通夜で泣いて挨拶した母がみっともなかったからと自らかって出た挨拶だった。
喪主の私の横で震えながらも立派な挨拶をした。

だからと言ってあれから平たんな道ではなかった。
自死ばかり考え彼の部屋は穴ぼこだらけ。
ひとりでケアに回った私は全身の毛を失い…

葬儀の前後も父の死がどう認識されていたのか?
息子の感情面は未だ謎である。
長男である息子を誰もが無視して
同じ子である気働きのある娘ばかりに人が物を問うのを
不服だ、何故だと
なんども心身疲労困ぱいの私に何度も聞いて来た。
もしかすると最後の親族挨拶は彼の汚名挽回策だったのかもしれない。

どちらが良いと言う障害はないけれど
病気の根っこは同じでも「お宅はまだ良い」と言われれば
基準をどこに置くかではあるけれど葬儀の状況だけ比べればそうかもしれない。


葬儀の後で着替えて
予定していいた在宅ホスピスを実践している隣県の医師の講演を聞きに出かけた。
しっかりサポートされて亡くなる方やご家族がうらやましい限りだった。
患者から声をあげて欲しい。医師に要望して欲しい。
点から線。線から面と在宅ホスピスを広げて欲しいと結ばれた。

講演後に在宅ホスピスに取り組んでいる医師を囲んで話の席が設けられた。
私は遠慮して帰ろうとしたら、会場で出会ったケアマネ仲間に呼び止められた。
つきあいとして末席に座った。
自己紹介を兼ねて講演の医師への質問をひとりひとりに問うことから始まった。
みんな重たい経験して来た人ばかり。ひとりひとりの話が長い。
一周したら医師から応答の時間はわずかだった。
聞いていて医師との出会いが状況をかなり左右する気がした。

  過去告知を家族に任せた医師と出会った人・
  最後は自宅で自死のかたちで末期がんの夫を見送って4年の寡婦…

自分の事を聞きながら省みていた。
夫のガン告知は先に私にされた。
「本人にはいつ知らせようか?大安吉日にしようか?」
笑い話のような医師の問いかけがあって
私はすぐに連れて来て話してもらえる時間が取れるかと医師に問い返した。

告知を受けている夫の背にずっと置いていた手に
その瞬間、体がピクン動いたのが伝わってきた。

6人部屋のカーテンの陰で
「いつ聞いたのか?」と私に聞いた。
「1分いや30秒前、1秒前かな?」と言ったら
「良かった。一人で抱え込んで黙って辛い思いをさせたかと心配した。」
私の心配をしてくれていたのだ。

消灯後私は自宅へ帰ったけれど眠れないのではと気になって
ワインを水筒に隠し持って、ふたたび病室にもぐりこんだ。
同室の人に気兼ねして小声で少しの時間しか居ることが出来なかったけれど。

やがて私の意志で死ぬんならと自宅へ連れ帰ったけれど
夫が急変の不安を訴えて病院へUターン。

病院へとふたたび行く時、
夫は玄関を出て
『二度と帰ることはないね』と自分が建てたローン中の家を振り返った。

そのとおりとなり、
痛み緩和が下手な最後はここは救急病院だという言う医師から
もぎ取るように6人部屋から緩和ケアへ搬送。
おそらくそこよりは同室の人たちへの気兼ねもなく
痛みもなくやすらかな最後であったと思う。

それでも亡くなった後のショック状態は長く続いた気がする。
告知もせず自宅で介護中に
自ら命を絶たれて後に残こされたその方の辛さは私の比ではないだろうと察する。

今、緩和ケアはガンとエイズ患者しか扱わない。
他の病気の死は一般病棟でしかない。
自宅での最後を望む人は多い。
誰も医療過誤のスパゲッティ状態でも延命は望まないのではないだろうか?

自分らしくより良い時間をいつもの場所で過ごして
迎える最後は
支える医療体制のバックアップひとつにかかっている。

総理がころころ変わって政権がどうなるのか不透明で
年金、医療、介護の先が見えない今も
闘病中だったり亡くなっていく人がある。

最後に良い医師に出会えるかどうかそれは運、不運。
こんなのありで良いの?


夫の死を克明に思い出す長い1日だった。

信用できる友達の信用できない情報

2008-03-05 06:09:30 | 終末医療
これからがんの処置をする知人が、信頼できる友人に勧められて
「キチン・キトサンでがんを治そうかと思う」と言ってきた。
私が夫をがんで失っている事を知って
『キチン・キトサン』は効くのか?効かないのか?
半信半疑なので聞いてきたのだろうと踏んだ。

がんになると回りから親切心であろうが、あれが効くこれが効くと言ってくる。
実際に買って持ってくる人から売りつけに来る人までいろいろだ。

その人は『キチン・キトサンのセンセイ』と言う人の所へ連れていかれ
放射線やがんの摘出手術は免疫力を弱める不自然なことで
キチン・キトサンの治療は免疫力を高める自然な処置であるみたいな事を
押し付けがましくない口調で吹き込まれ気持ちがぐっと傾いたらしい。

一万人の医師が使い始めた健康回復物質「キチン・キトサン」―症状・病状別に徹底検証!
旭丘 光志
現代書林

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↑の本を読んで感想を聞かせてくれと言ってきた。
この種の本は正直ごまんと見る。
○○に効くとサプリメントとの宣伝効果を謳っている。
決まって著名そうな医師の名が書かれて信用させようとしている。
『一万人の医師が使い始めた』という銘々がすでにうんさくさい。

現代書林とはどう言った種類の出版が多いのか調べた。

  『催眠術の極め方』 『 薬もインスリンもやめられた!新しい糖尿病治療』  『気管支ぜんそくは克服できた』『運命が変わる!金澤秀洸の超「占い」人生  指南』『平凡だったボクが年収一億円になれた理由 』『「ブッダを読む人」  は、なぜ繁盛してしまうのか。』『 宇宙神道-神々の救済』『今すぐ幸せになれるスピリチュアルヒーリング 』・・・

では著者の旭丘光志氏は他にどんな本を書かれている人なのか?

  『統合医療の力絶対あきらめない見放さない全方位治療』
  『内臓脂肪「そうじ」力医師が実証!メタボリックシンドロ-ム克服法』
  『毒出しフル-ツノニ効果細胞がよみがえる!』
  『食べる酸素健康法チベットの秘薬“紅景天”が潜在能力を賦活する』
  『3l水飲み健康法症状別実践編 』
  『イチョウ葉エキスはなぜ、「痴呆」によいのか「脱介護」をめざす!』
  『 女性の悩みを解消するピクノジェノ-ルの癒し』
  『AHCCの新威力ガン・慢性肝炎・糖尿病に特効 』
  『死んでも、子どもは見捨てない「非行」「無気力」「落ちこぼれ」を救うある私塾… 』
  『免疫ミルクはなぜリウマチ、ガン、感染症に効くのか』
  『ドキュメント山村留学生きかえった都会っ子』
  『宇宙慈悲よありがとう宇宙神道がひらく21世紀の普遍真理 』
  『夢は片手に重いけど障害者の“希望の星”木下由紀子の命の日々』
  『燃える池田中学自由、創造への挑戦!』
  『医療気功の衝激生体エネルギ-の超医学』・・・

なんと雑多な!どういうポリシーの人かとんと掴めない。
○○宣伝のための依頼に応じて本が書けるライター???
免疫ミルクとフルーツノニは夫が勧められて飲んでいた。
随分高価であった記憶がある。
末期がんだから藁にもすがりたい気持ちを汲んで
人が良いと言い気になったものは全部試した。
今思えば、逆に肝臓に負担だったかもしれない。
胆管がんも後で発見された夫の命を逆に縮めたのかもしれない。
誰も良かれと思って勧めてくれたのだろうかれど。

そうそう水もあった。
高価な水道水浄水器を売りつけた人も居た。
毎年のフィルター交換がまたものすごく高くて、
夫の死後ゴミに取り外して捨てた。
人の弱みに付け込んでの商売品は見るのもイヤだった。
友人面をしてと、今も許せない気がしている。

旭丘光志氏はもうちょっと調べたら

  『山頭火(別冊エ-スファイブコミックス ) 』
  『黒の事件簿(講談社コミックノベルズ )』
  『赤い文字の秘密(コミック・名探偵ホ-ムズ全集 ) 』
なんと劇画家でもある。

  『北国の墓標(文華新書・小説選集 ) 小説・中川一郎怪死事件 』
小説も書いている。


出版社の出版物と著者の書いた本を調べただけで
『読む気がなくなった』と伝えた。

もし親切なつもりだったら、心配な気持ちを持っているのなら
病の時はそっとしてあげるのが親切。
生半可な知識は
どんな小さなことでも不安要因になる。

やたら謳い文句が仰々しいかったり、
信用できそうな有名っぽい人の名が出ているのは要注意と思った方が良いかも。
日常出会う人でも
実態のない人ほど
著名人や肩書きのある人と知り合いみたいな話をしないだろうか?

     本物は寡黙で奢らずもの静か


ここらで一番利用の多い総合病院ウオッチング

2008-02-13 03:13:11 | 終末医療
地域に緩和ケア病棟が必要だと訴えた草の根運動が実って
亡夫を死の3週間前に遠くの緩和ケア病棟に運びだした病院へ
緩和ケア病棟が出来ることになった。
現在、そこに姑が入院している。
夫が末期がん告知を受けた場所であり
おととい8つ違いだったその時の夫とおない歳を迎えた。
54歳と言う背負うものも多い時期、まさに人生半ばで
死の宣告を受けたのかと感慨深く、
その場所に居ることで余計、いろんな思いが去来する。

> 明日の手術、しっかり病院ウオッチングも宜しくお願いします。
> ○○病院の緩和ケア病棟は大丈夫なのかと心配。

↑草の根運動を起こした人からのたまたまメールが来たので、
姑のことを書いた返事への返信。
彼女は近所に住む自らがん患者で子供さんを小児がんで亡くした人。
念願叶ったけれども、
これからはちゃんと緩和ケアが運営されるか監視の目が必要だと言っている。
↓以下、それへ答えて私の返信。

**************************** 

まず術前の医師の説明と手術には家族の立会が必須と言うのに
時間が曖昧で散々待たされました。

私は仕事を変わったばっかりで有給がありません。
日曜出勤してわざわざ代休を取って備えたのに
昼前から居て欲しいとだけで、
実際は説明が1時半。手術が3時半。

説明は姑は点滴が数本に尿の留置カテーテルが付いている状態で
1週間、個室のトイレまで歩くだけなので足が弱り
現在、車いすでないと移動困難なのに
ナースの詰め所に呼ばれて、
小さな心臓血管の模型を手に医師から説明がありました。
老眼の姑には模型がちゃんと見えたかどうか?
詰まっている箇所はに小さなテープが張ってありましたが、
今日施術する何人分も印がしてある感じで
姑のはどこか?説明が済んだらどこかもう分からない状態。
ざわざわとする詰め所の一角で聞き取りにくく
プライバシーも保てません。
レントゲンや見なければいけない映像がある訳でもないのに
医師の方から個室病室にやってきて話しても構わない事ではないのか?
少々、ムッとしました。
説明は早口で姑本人には最初から最後まで理解不能。
質問するとそんな事も知らないのか?と言う
医師態度で、丁寧な理解と同意と言う感じではなかったです。

手術ではなく検査と言う書き方で
太腿から心臓までカテーテルを通して
心臓部の血管を広げる金具が2個入れられると言う事でした。
金具を入れる事への危険は25%との説明だけで、
姑への金属アレルギー反応等の検査が合った様にも見えず。
高齢なので『しなくてもしても危険だよ』みたいなおざなり。
麻酔についてはいっさい説明なし。
施術をされる本人への不安に配慮したものはまったくありません。
何パーセント、自分たちがこれから行う手術に危険がともなくか?
術後の死への確率は何パーセントか?
でもしますが構いませんか?と医術者の保身のため説明、同意ですね。

いよいよ手術と言うか処置?検査?
ナースがひとりでやってきて
家族にベッドを押すのを手伝ってもらって
一般エレベーターに他の人もじゃんじゃん乗ってくるので移動。
狭いあのくねくねの増設廊下を必死の思いで押しました。
廊下の継ぎ目でガタンとベッドに振動がかかります。
痛みのある人はたまらないでしょう。
家族はここで待って下さいと通路の椅子に座らされて1時間。
どのくらい待つのかと言う説明では15分でした。

術後の太腿がカテーテルを通した時の出血が拭かれた形跡なく
血だらけのままなのもどうかとも思います。
術後、安静とはどこまで動いていいのか?
もうすぐ夕食なので訊ねたけれど
すぐに返答が出るまで1時間待たされました。
その日の夕食は寝たまま横向きで家族が食べさせるか
家族が帰れば、
ベッドを起こして自力で食べられる時間まで待たせるとの事でした。
姑は座って食べても誤嚥をするんで
寝たまま食べさせるのは不安だと訴えたんですが
家族が食べさせろと言う見解は変わらず。
放置された冷えたものを食べさせるのもかわいそうで
結局私が食べさせました。食欲なく1割程度で終わりました。
人手不足なんでしょう。

尿の留置カテーテルを抜いたら、点滴の電源を自分で外して
トイレまで点滴を持って移動。尿量を測ってトイレに捨てるんですが
姑は面倒がってトイレへいきません。
ほっておくとお茶もろくに飲みません。
足と顔がむくんでいますがその辺りの配慮もなし。

私も仕事持ち。付添は無理ですが、本来、必要に感じました。
本当に完全看護なのか?
夫が居た7年前と大差ない感じでご心配の通り
『緩和ケアは大丈夫なのか?』と言う印象でした。

*****************************

いつになったら患者や家族の目線の病院に生まれ変わるのだろう?
夫を緩和ケアに搬送する直前の担当医の言葉が忘れられない。

 『ここは救急病院です。』

救急病院で毎日のように人が死を迎える。

お世話になった訪問看護師さんに再会

2007-05-12 01:53:14 | 終末医療
夫が末期ガン宣告を受けた総合病院へ
仕事で利用者さんの見舞いに行った。
もう日差しが強いので駐車中、車内の温度が上がらないように
あの8月の猛暑、
いつも止めていた地下駐車場の方へ公用車をすべりこませた。

当時の事が鮮明に浮かんできた。
一番お世話になった訪問看護のYさんは
今も居られるだろうかと
歩く館内に目を走らせたりした。

この病院は地元では誰でも知っている
かなり大きな病院であるにも関わらずソーシャルワーカーは居なかった。
相談窓口の人は事務系の人でまったくお金以外の事は相談にならなかった。
私は治らない病なら自宅へ夫を連れ帰りたかった。
自宅で最期をすごさせたかった。

結局、ほんの2週間在宅生活で再入院となった。

そのわずかな自宅へ帰るための準備や
医療のない自宅での不安除去に
訪問看護師Yさんが大きな心の支えになった。

一度も我が家へ来てもらう事はなかったけれど、
再入院までの2週間、
末期ガンの夫はひっきりなしに具合がわるくなり
私はおろおろと何度もYさんに電話し
アドバイスを受け、
受診が必要な際には痛みのある夫に負担が少なくなるよう
待ち時間を少なくする配慮を外来にして下さった。

用事がすんで4階から一気に階段を駆け下りたら
病室に帽子を忘れたことを思い出し
階段をUターン。
再度、居り終ったところで
背の高いナースとすれちがい
もしやと名札を読むとYさん。
お顔へ目を移すとやっぱり。

 「Yさんですか? 覚えておられるでしょうか?」

声をかけたら7年も前の患者家族なのに思い出してもらえた。
この総合病院から夫をひったくるような感じで
緩和ケアのある病院へ転院を急いで出ようとした時にも
奇遇にも出入り口で出会ったんだった。

あの時も手短に転院の顛末が話せた。
これから世話になる緩和ケア病棟の医師をしっかりご存知だった。

 『安心ですね』

と言う言葉をもらった。
去る病棟では婦長までが

 『治療をあきらめて死に行くのか?』

という態度だっただけに、私の判断にお墨付きをもらった気分がした。

それから夫の死の数ヶ月後、
学生ふたりの子供を抱えて、
経済的不安感からじっとしていられなくて
空き職があると、誘われるがまま
ショッピングモールのエプロン売り場の店員をしている時に
同僚の結婚祝いを買いにきたお客さんとしてばったり出会い
それ以来だった。

ケアマネの名札をぶら下げていたから
頭の中で経験年数を計算されたようで
介護保険前、夫が元気な時にヘルパーをしていた期間を通算したら
ぎりぎり経験年数5年セーフだった話や
もう仕事について1年経過したことなどちょこっと立ち話。

Yさんは変わらず訪問や相談を受けておられた。
かつての私みたいな患者家族と患者さんの相談へと
病室に向かわれるところだった。

別れ際に

 「もう大丈夫ですね」
 「そのお仕事ならまたここでお会いできますね。」

今度はほんとうに、仕事上でお世話になるかもしれない。
『もう大丈夫』と言われた笑顔に
報いなくっちゃと背筋が伸びた。

当時の私は半狂乱。
心配に値する印象に残る家族であったらしい。

帽子を忘れて取りにかえらなかったら、
エレベーターを使わずに階段を上り下りしなかったら
懐かしい人に会うこともなかった。

いろんな偶然が重なって、
時たま
ごほうびみたいな人に出会うような気がする。

延命措置を望みますか?

2007-03-24 06:30:35 | 終末医療
寝たきりの利用者さんのご家族から入院の連絡が入った。
往診の医師が救急車を手配したとのことだった。

はっきりした病名も付かず、入院期間未定とのことで、
医師から
 『延命措置をどうしますか?』
と聞かれたそうだ。

病院へお見舞いに行った。受付で聞いた部屋番号を頼りに部屋を探す。
ナースステーションの隣りにその部屋はあった。
ドアは開け放たれ
4つのベットが放射状に配置されている。
それは看護、介護がしやすいためのような、
普通に並んでいないって事はそういう事なんだろう?
たぶん…
病人のプライバシーなど二の次のような。

ベット脇には全員、紙オムツが置かれて
似たような年恰好のご高齢で
おそらく自らカーテンをひく事もできず
寝返りも自力ではむつかしそうな人ばかり。
どのベットの傍にも、
たまたまだろうがご家族は居られなかった。

一瞬どの方が私が訪ねた人か分からなかった。
寝ている人たちがまるで物体のように見えてしまった。

ここは最後の尊厳を尊重される緩和ケア病棟ではない。
緩和ケアへ入院できるのはガンとエイズ患者にだけだから、
その他の病人は、看取りの時期であるなら
いったいどの病院を選択すればいいのだろう?

 延命措置を
   望むか?望まないか?

と言ったことより
他に関心を払われる扱いを望むのではないかしらん?
まして、それを医師が口にした時、
当人には判断する気力や能力がありそうにはない。
当人に成り代わってする家族の選択は、
なにを選択しても後悔が残る。

  本当は何を望んでいたか?

分かることは不可能だから。

もしこの病院従事者の方々が、
自分であっても、
歩いて逃げ出すこともできない体を
そこに寝かされたいと望むのだろうか?

誰にも平等に死はおとづれる。
他人事ではないのだ。
いづれ誰にでもいつかは必ずやってくる。
その時は
すぐなのかもしれないし
ゆっくりと遅くやってくるのかもしれないけれど
誰にも知らされていない。





命日の黎明

2006-09-22 07:05:28 | 終末医療
あれから5年。
あの時は
もう時が進むとも思えなかった。

不安と喪失感と。

夫の看病が
最後は私の仕事だったから

失業と失恋と
いっぺんにやってきたようなだった。

でも
学生2人の遺児が
私には託されていた。
はっきり障害とは
分かっていなかったけれど
充分、先に不安を感じる息子こみで。

焦燥感が
逆に
虚脱のままでは
置いてくれなくて
良かったのかも

今は3人3様
それなりに
安定、平穏

とうちゃんはいなくても
大黒柱を失っても
大丈夫だよ。

朝の空気に誘われて
ひさびさに散歩。
山の中の研修所は一段とすがすがしい。

黎明の向こうに
十万億土は
あるのかな?



9・11は緩和ケア病棟だった

2006-09-11 05:23:31 | 終末医療
全世界に衝撃が走った9・11。
テレビも新聞も見ていなかった。
緩和ケア病棟で夫に付き添っていた。

あの時、私は夫の死に至る経過を
一生
克明に覚えて過ごすものだと思っていた。

それが今、
どんどん記憶から落ちて、
だんだんアウトラインだけになってきている。
バーンと頭がしびれて
そして辛い記憶は忘れてゆくように出来ているのかもしれない。

転職をくりかえし、好きなように生きた太くて短い、
夫にとっては最良の人生ではなかったかと
良いことばかりを思い出す。

テレビで見た
貿易センタービルの崩壊シーンは
次の日だっのか次の次の日だったのかもう定かではない。
意識がはっきり戻った夫が

 まるでゴジラの映画みたいだ
 これから世界はどうなるんだろう
 ますます経済状態も悪くなりそうだ

たまたま見舞いに来た旧知の友と
今後の経済談義までしていた事を思い出す。

9・11のあの日。
テレビすらついていないと言うことは
私が朝刊すら売店に買いに行ってないと言うことは

昏睡状態だったのか?
あるいは疼痛緩和がしっかりされていたから
骨転移したガンの所為で立たない足を忘れて、
立って歩くと言うのを諌めて過ぎたのかもしれない。

ガンに肝臓が犯されると意識障害も出てくると
医師の説明があった。

もう立ってトイレに行けなくなり
紙おむつが必要となっていた。
いつまで続くか分からない闘病生活だった。
病院の人に教えてもらって
近くの量産店に大量に買いに走ったついでに
夏物しか持って来ていない自分に長袖Tシャツも買い込んだ。
それは今もタンスに入っているから確かな記憶だろう。

若い頃、子供さんをガンで亡くし
自らもガン患者である近所の人が
緩和ケア建設運動をはじめていて
近所のよしみで入会してはいたが、他人事だった。

夫の再発、末期告知。
それでも医師の勧めで
ワンクールの無駄な苦しいガン治療を夫は選択した。

治療終了2週間後
再々入院の日が来た。
医療のない我が家での生活に夫が不安を抱いたのだ。
夫は二度と家に帰れない覚悟だった。

しかし治療のない、
回復の見込みがない患者へ病院は実に冷たかった。

そんなある日
会の講演会のおしらせが届いた。
講師は一番近くの緩和ケア病棟ソーシャルワーカー。

付き添いのベットサイドから直で
私は聞きに行った。

そこで見聞きした病棟は
病院はこんなものとあきらめていた
夫が置かれている状態からすると
別天地だった。

講演会終了後、即座に夫に転院しようと話を持ちかけた。
ベットが空いているとも思えなかったが、
ダメモト。
一か八か、
動けない夫に代わって私が緩和ケア外来に行って話す事になった。

 そんなたいへんな状態の人が6人部屋ですか

即決。
緩和ケア病棟が空くまで
そこの一般病棟へとりあえずの転院許可が出た。
なかなか担当の医師から紹介状も書いてもらえなかった経緯も話した。
緩和ケア医はその場で
動けない夫の搬送交渉まで電話交渉してくれた。

移ってすぐに疼痛処置がされた。
しっかり刻みこまれていた眉間の縦ジワが
魔法のように消えた。

 どこも痛くない

疼痛ケアにも専門があるのだと初めて知る。

死後半年経って、会の会報に短い手記を載せてもらった。
ひとりでも多くの人に緩和ケアを知ってもらいたい思いから書いた。

もし、
同じ立場の人が居られたら
早く、もっと早く
緩和ケアのお世話になっていたらと
後悔してもはじまらない無念な思いをしないで欲しいと。

5年経過して
絶対にわすれないはずの記憶が
もうなくなり初めている。
自分の書いた手記を読み返す事で
記憶を繋いでいる。

多くの遺族を生んだ9・11。
その後11日経過。
9月22日。
私も遺族になった。

あれからのアメリカのイラク攻撃はなんだったのか?
日本の自衛隊派遣はなんだのか?

9・11からもっとたくさんの無関係な人まで巻き込んで
遺族がまた増えてしまっている。

最後を心置きなく付き添え
見送りについては最良だったと思う私と
9・11の遺族の痛みとはまったく別質だろう。
だから余計に9・11が気になる。
夫の死と共に毎年思い出すに違いない。

まだ近場に緩和ケア病棟の計画すらない。