Facebookでチリのアジェンデ大統領(当時)の最後の演説がシェアされていました。
1973年9月11日チリにおいてピノチェト及びこれに同調する軍部と治安警察がクーデターを引き起こしました。
アジェンデ大統領(当時)は、ピノチェトらによるクーデター軍の辞職勧告に屈することなく最後まで信念を貫きました。この動画は、大統領府がクーデター軍に包囲されている中でのアジェンデ大統領(当時)による人民に向けた演説です。これは、まさに死を目前にした中でのアジェンデ大統領(当時)の演説です。
アジェンデ大統領(当時)は、自ら自動小銃を手にして僅かな武装民兵とともにクーデター軍に立ち向かい非業の死を遂げました。しかし、アジェンデ大統領(当時)の死は決して無駄にはなっていません。否、チリの人民及びラテンアメリカの人民はアジェンデ大統領(当時)の死を無駄にしませんでした。演説の中でアジェンデ大統領(当時)は「犯罪行為であろうと武器であろうと社会の進歩をとどめることはできないのです」と訴えました。
また、アジェンデ大統領(当時)は、演説の終盤に次のようなメッセージを遺しています。
「私に続く者たちが裏切りの支配する灰色で苦い次代を乗り越えていくでしょう」
「遅かれ早かれ、より良い社会を築くために、人々が自由に歩くポプラ並木が再びひらかれるでしょう」
ピノチェトは1990年まで軍政を行いました。その後、ピノチェトは反政府派市民を虐殺した責任を問われて英国で逮捕され、2001年にチリに帰国した後、誘拐罪と殺人罪で起訴されて自宅軟禁されました。その他には、脱税の疑いでピノチェトの妻子が逮捕されました。
http://kotobank.jp/word/%E3%83%94%E3%83%8E%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%88%E8%A3%81%E5%88%A4
アジェンデ政権は、選挙で成立した政権です。民主的なやり方で人民の意思により成立した政権を武力で転覆して権力を一時的に握ったところで最後には犯罪者として裁かれ断罪されるのです。ピノチェト自身は、2006年に裁判の途中で死亡したために判決を受けませんでしたが、社会的実態としては、ピノチェトは最後(最期)には犯罪者として断罪されました。
アジェンデ大統領(当時)は、社会の進歩をとどめることはできないと語り、実際にラテンアメリカの情況はアジェンデが大統領をしていた時代とうって変わってベネズエラ、ボリビアをはじめ、国により温度差があるものの進歩と革新の政権が大勢を占めるようになりました。
米CIAが暗躍しながらクーデターを引き起こそうと何をしようと社会の進歩をとどめることはできないというアジェンデ大統領(当時)のメッセージの正しさは現実の情勢により証明されています。
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