土木学会のWeb情報誌の "from DOBOKU"の中の、「土木スーパースター列伝」から寄稿を依頼されまして、
濱口梧陵(はまぐち ごりょう)についての原稿を書きました。11月5日に掲載予定、とのことです。
編集部に、一般向けの楽しい語り口に「厳しく」修正される、と聞きましたので、初校をこのブログにあげておきます。
濱口梧陵を知らない方も少なくないと思いますが、日本人全員が知っていてもおかしくない偉人です。ぜひ、この機会に知ってください!
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タイトル:【濱口梧陵】「これぞ公共事業!」 土木スーパースター列伝 No. ??
こんにちは。横浜国立大学教授の細田 暁です。
コンクリートの研究をしておりますが、土木史が大好きで、勤務先の大学の全学教養科目の「土木史と文明」という講義も担当しています。講義では国内外のたくさんの偉人を紹介しています。土木史は面白いですよ~。
今回は、濱口梧陵(はまぐちごりょう)を紹介します。この記事を書くにあたって、復習してみましたが、まあすごい人物です。私の土木史の講義では時間が限られているので、濱口梧陵のことを紹介できていなかったのですが、大反省しました。今年の10月からの講義では絶対に紹介します!
濱口梧陵(1820~1885)は、皆さんもご存知のヤマサ醤油(1645年創業)の七代目の当主でした。当主の時は濱口儀兵衛(ぎへえ)という名で、梧陵は当主を退いてからの名前です。今回は、儀兵衛の名で彼の伝説的な生涯を紹介しますね。
稲むらの火の津波防災でも有名ですが、なんと儀兵衛は勝海舟、佐久間象山、福沢諭吉などとも親交が深く、我が国初代の郵政大臣でもあったすごい人物なのです。
レジェンド儀兵衛①〜稲むらの火
「稲むらの火」と聞くと、小学校の教科書で習ったのを思い出す人もいるかもしれません。この話は、江戸時代末期の安政南海地震での儀兵衛のレジェンドです。
1854年,34歳であった儀兵衛は,醤油づくりの銚子と江戸の店での陣頭指揮と,家族のいる地元の紀州(現在の和歌山県)の広村を行き来する生活を続けていました。
11月5日の午後4時頃,安政南海地震が発生しました。津波から高台へ人々は逃げましたが、逃げ遅れた人も多くいました。儀兵衛も逃げる途中で第一波に飲み込まれ、木の幹にしがみついて何とか小高い丘にたどり着いた、という状況でした。
第二波,第三波が来ることを知っていた儀兵衛は、高台の神社の近くの稲むら(稲を刈り取った後に、実を取って干した稲の束。翌年の肥料として使ったり、縄の材料として貴重)に火をつけて、逃げ遅れた人々を高台に誘導しました。四回にわたった津波は広村を壊滅させましたが、ためらわずに稲むらに火を放った儀兵衛の勇気と判断力が、多くの人々を救ったのです。
レジェンド儀兵衛②〜広村の復興
儀兵衛のすごいのは、壊滅的な被害を被った広村の復興を私財を投げうって成し遂げたことです。土木や公共事業の理想的な姿が見える気がします。
大地震の翌朝、隣村の庄屋さんと交渉して、五十石もの年貢米を借りる約束を取り付けます。神社の近辺に1400人もの人が避難していたので、約2週間分の米を確保したのです。
広村を捨てて他の土地へ移住することも考える住民が少なくない中、儀兵衛は濱口家の財産を使って、50軒の仮設住宅を建て、無料で住んでもらうことにしました。
農民の農具、漁民の用具や船、商売への資金、などの援助も行いました。
そして、将来も確実に襲ってくるであろう大津波から広村を守るための、堤防の建設を主導したのです。建設費用も自分で支払い、高さ5mほどに及ぶ大堤防の建設は、財産を失った村人の仕事を作る目的も兼ねていました。まさに公共事業ですね。
儀兵衛は、村を救うために5000両(現在の約2億5千万円)もの財産を投じたと言われています。堤防工事の始まった1855年の10月には、江戸で安政の大地震が起こり、ヤマサ醤油の江戸の店も大きな損害を受けました。しかし、当主の儀兵衛の世のための行いを支えるため、銚子の店の者たちは一丸となって働き、尊敬する当主を支えました。
1858年に、高さ5m、幅20m、長さ600mの堤防が完成しました。この堤防のおかげで、1946年の昭和南海地震の津波のとき、広村の人々は大きな被害からまぬがれたのでした。
11月5日が「津波防災の日」とされているのは、ここまでご紹介した儀兵衛の津波対策にちなんでのことなのですね。
学生たちとの見学会で,広村堤防の上にて。
レジェンド儀兵衛③〜独立の精神と教育への情熱
儀兵衛は、1841年に蘭医学者の三宅艮斎(ごんさい)と出会い、お互いに尊敬し合う関係を築きます。当時、日本の各地で天然痘やコレラなどの伝染病が流行し、多くの人が命を落としていました。儀兵衛は艮斎の医療を支援し、後に、艮斎が江戸で多くの蘭学医と協力して、種痘所を建設するときにも多額の寄付をしています。予防接種を目的に建てられた種痘所は、現在の東京大学医学部の前身でもあります。
30歳のときに、儀兵衛は佐久間象山の弟子となり、津波防災の科学的な知識を得たのも象山からのようです。
同じく30歳のときに、儀兵衛は勝海舟と出会い、終生の友となります。勝海舟が咸臨丸の館長として日本で最初のアメリカ渡航をしたときにも、儀兵衛を強く誘いましたが、深く悩んだ結果、広村の教育を放り出すことができず、泣く泣く断りました。
我が国の発展のため、儀兵衛は教育事業に情熱を注ぎました。1852年に「広村稽古場」を開き、学問と武道の両方を教えました。現在も、耐久中学・高等学校として残り、1870年に建てられた稽古場の建物が「耐久舎」として中学校の敷地内に残っています。
私の研究テーマの一つが、コンクリート構造物の「耐久性」です。なんとも言えない親近感を覚えてしまいました。。。
儀兵衛が広村での教育事業をさらに本格的なものにしようと考えていた47歳のころ、32歳の福沢諭吉と出会います。二人はすぐに打ち解け、儀兵衛は諭吉から教育事業における様々な助言を受けました。
レジェンド儀兵衛④〜政界への進出とアメリカでの最期
土木の分野では、津波防災で有名な儀兵衛ですが、晩年は政界でも大活躍しています。ここでは、ごく簡単にですが、梧陵の活躍をご紹介します。
巨大津波からの復興事業などの功績が認められ、1868年に正式に紀州藩の役職に就く。3年後に和歌山藩大参事(副知事のような役職)に就く。
明治政府から、初代の郵政大事に指名され、西欧の郵便制度の導入に着手。
1880年に和歌山県議会の初代議長に選出。
1884年に64歳のとき、すべての役職から引退し、いよいよ念願の海外渡航計画を実行に移す。
1884年5月30日、福沢諭吉の弟子である金子弥平をお伴に、横浜港からアメリカに向けて出発。アメリカの自然の雄大さ、列車の速さなどに驚く手紙を諭吉に送っている。
ナイアガラの滝の観光を終えて、ニューヨークに着いてから、体調を崩す日が多くなり、1885年4月21日、ニューヨークの病院で息を引き取った。
金子が力を尽くして立派な棺を用意し、多くの防腐剤をしこみ、厚いガラスでふたをした鉄の棺は、約1か月後に横浜港に到着した。海舟と諭吉の提案で横浜にて開かれたお別れの場には数えきれないほどの人が3日間、長い列をなした、とのこと。
おわりに
皆さん、濱口儀兵衛の生き様、いかがでしたか?まさにレジェンドですよね。儀兵衛の防災、公共事業に対する考え方、教育事業への情熱、は現代のわれわれもお手本にすべき素晴らしいものと思います。
もっともっと濱口梧陵のことを、多くの国民に知ってもらいたいですね!
参考文献:時代を切り開いた世界の10人 レジェンドストーリー,10巻 浜口儀兵衛,学研教育出版,2014
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