細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

8割

2014-05-09 03:04:48 | 研究のこと

2月6日に岡村甫先生のインタビューを行ったとき、「8割」という話が出ました。

岡村先生の師匠の國分正胤先生と、テキサス大学のファーガソン教授は、岡村先生から見て8割が共通しており、その共通部分を「大教授の要件」であろうと岡村先生が話しておられました。

その8割とは具体的に何なのでしょうか?ともちろん質問しましたが、明確な答えは得られず、インタビューのやり取りの中で、人間として、研究者として、教育者として大事にしているフィロソフィー、のようなものであると理解しました。

そして、8割のことをしっかりと理解して行動していると、大教授方に怒られることはほとんどない、とのことでした。 だから、他の人から見ると冷や冷やするようなことも平気ででき、すれすれの所を通って行けるというような話をされていました。一方で、8割のことを十分に理解していない人は、怖くてそれほど近づけない、とのことでした。

その話と似たような、しかし別のような話にも思いますが、個性豊かな研究者が輩出されている私の出身研究室の東大コンクリート研の先輩方と話していると、6割(人によっては7割と言う)を共通部分として持っており、つまりフィロソフィーを共有しているので話が簡単に通じ、残りの部分が個性であろう、とのことです。

2/6の岡村先生の8割と、6~7割の違いは、大教授とそれ未満の違いなのでしょうか。このことは、今この記事を書きながらふと思いました。

今は私は研究室のマネジメントをする立場にありますが、その6割なり7割なりのフィロソフィーを、研究室で時間をともにした方々が共有できているのか、省みています。

6割なり7割なりのことを心の底に共有して社会に出てもらうことは、教育そのものだと思いますが、その成果がきちんと見えてくるのには時間がかかると思います。10年、20年と社会人として最前線で活躍した後に話してみて、6割、7割を共有できているな、頑張っているな、とお互いが思えれば教育の効果があったのでしょうし、そうでなければ単なる自己満足なのでしょう。

私のやり方としては、まずは私のフィロソフィーに共鳴してくれる人をしっかりと育て、連携して全体が自然に育つ環境を創り上げるというものです。

メンバーの入れ替えの激しい組織ですし、現在は私も海外赴任中なので、そう簡単ではありませんが、できうるベストのことをしたいといつも思っています。

私は基本的には愛情深い人間のつもりですが、自分の寺子屋に入った人間には厳しく接します。間違っているものは間違っていると言うべきだし、教育とは生半可な仕事ではないと思っており、中途半端なレベルの人間が行うべき仕事ではないと思っています。未熟であっても教育はできると思いますが、少なくとも非常に高いところを目指す人間でないと、本当に未熟なだけの人間は、少なくとも最高学府で教鞭をとるべきではないと思っています。非常に高いところを目指すには、非常に高いところ、がどういうものなのか、肌で感じるしかありません。 

私一人だけでは非常に高いところを見せることはできませんが、私の中の一部や、私の周囲の連携している方々の優れた部分を見てもらえれば、一流とはどういうことなのかを肌で感じることができると思います。そのような環境を、私も先生方・先輩方から学びつつ、努力して構築してきたつもりです。

岡村先生が「8割」を言葉で表現されなかったように、私も6割、7割、8割のことを明確に言葉で表現することはできません。具体的に一つ一つの事例について、自分の考え方を説明することはできます。それらの総和でしか説明できないのかもしれません。もともとアクティブな方々が多いので、肝をしっかりとつかんで行動しないと、行動しすぎることによって逆に信頼を損ねてしまうこともあり得ます。

以前、私の部下であった香川高専の林さんとは9年半、一緒に過ごしましたが、まさに一つ一つの事例についての私の考え方を、直接、間接に、くどいほど説明してきました。 私の考えることを、世の中の誰よりも理解している人かもしれません。

現在の研究室のスタッフや、学生たちは、私の海外赴任の影響もあって、十分にコミュニケーションできていない場合もあります。先の岡村先生のお話ではありませんが、私に叱られると私のことが怖くなります。近づくのが難しくなってしまいます。そうすると、何のために研究室にいるのか、本来の目的を忘れて、本質的でない時間が過ぎていくばかりになります。私が叱る場合は、6割、7割から外れた行動をしているから、という場合がほとんどだと思います。学生であってもたまに、私がほぼ手放しで指導できる人もいます。6割、7割をすぐに理解できる方々だからでしょうか。

先の9年半も、要は真剣にコミュニケーションを重ねてきただけです。すべてはコミュニケーション。教育の場において、フィロソフィーとは簡単に移植できるようなものではなく、一つ一つの積重ねの結果でしかないと思っています。


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