みんな世の中の仕組みがわかっていないと見える。
世の中は「勝者総取り方式」になっている。
「トーナメント方式」と呼んでもよい。
スポーツしかり小選挙区制度しかり、ビジネスしかり戦争しかりだ。
こういう世の中では、絶対的基準に基づいて相手に対して優劣をつける必要は無い。
相手を少し上回ればよい。
相手に勝るために、その道を極める必要はない。
小選挙区制度のもとで構築される政治の世界が、
全体最適のようなより絶対基準的に基づいて動くとは限らない。
いや、相手を少し上回ればよい勝者総取り方式において、そんなことをする必然性はない。
政治家が相手を少し上回る票を獲得するために全力を尽くすようになるのは必定である。
だから!だから!だから!!
首相公選制のように全国民から直接選挙で選ばれる首相を選んだり、
衆議院議員を100人にするなどして、1選挙区のパイを広げる必要があるのだ。
全体最適思考を政治の世界に取り込みたいのならね。
注意しなければならないのは、
「勝者総取り方式」には勝者にバイアスがかかるということだ。
例えば、トーナメント戦の優勝者が、
必ずしも1回戦敗退者よりも圧倒的に実力が上とは限らない。
サッカーワールドカップの優勝国が1回戦で敗退した国よりも
圧倒的に強いとは限らないようにだ。
その時点で相手より少しでも上回った方が残るというだけだからだ。
また、「勝者総取り方式」による勝者がずっと勝者だとは限らない。
というのも「勝者総取り方式」の勝者は、多分に不確実性に左右されているためだ。
不確実性の要因によって、勝者が敗者になる可能性が多分にある。
恐竜は「勝者総取り方式」になぞって勝者だったが、環境の変化によって敗者になった。
つまるところ、恐竜が勝者でいれたのは、「たまたま」環境が整っていたからだ。
その「たまたま」を過剰評価してしまうところが、人間の性なのだが。
このあたりの考え方はナシーム・ニコラス・タレブ著「ブラックスワン」を読んで欲しい。
実は「ブラックスワン」の考え方と、コミュニタリアン的考え方は相性がいい。
このあたりについてもいつか語ろうと思う。
世の中は「勝者総取り方式」になっている。
「トーナメント方式」と呼んでもよい。
スポーツしかり小選挙区制度しかり、ビジネスしかり戦争しかりだ。
こういう世の中では、絶対的基準に基づいて相手に対して優劣をつける必要は無い。
相手を少し上回ればよい。
相手に勝るために、その道を極める必要はない。
小選挙区制度のもとで構築される政治の世界が、
全体最適のようなより絶対基準的に基づいて動くとは限らない。
いや、相手を少し上回ればよい勝者総取り方式において、そんなことをする必然性はない。
政治家が相手を少し上回る票を獲得するために全力を尽くすようになるのは必定である。
だから!だから!だから!!
首相公選制のように全国民から直接選挙で選ばれる首相を選んだり、
衆議院議員を100人にするなどして、1選挙区のパイを広げる必要があるのだ。
全体最適思考を政治の世界に取り込みたいのならね。
注意しなければならないのは、
「勝者総取り方式」には勝者にバイアスがかかるということだ。
例えば、トーナメント戦の優勝者が、
必ずしも1回戦敗退者よりも圧倒的に実力が上とは限らない。
サッカーワールドカップの優勝国が1回戦で敗退した国よりも
圧倒的に強いとは限らないようにだ。
その時点で相手より少しでも上回った方が残るというだけだからだ。
また、「勝者総取り方式」による勝者がずっと勝者だとは限らない。
というのも「勝者総取り方式」の勝者は、多分に不確実性に左右されているためだ。
不確実性の要因によって、勝者が敗者になる可能性が多分にある。
恐竜は「勝者総取り方式」になぞって勝者だったが、環境の変化によって敗者になった。
つまるところ、恐竜が勝者でいれたのは、「たまたま」環境が整っていたからだ。
その「たまたま」を過剰評価してしまうところが、人間の性なのだが。
このあたりの考え方はナシーム・ニコラス・タレブ著「ブラックスワン」を読んで欲しい。
実は「ブラックスワン」の考え方と、コミュニタリアン的考え方は相性がいい。
このあたりについてもいつか語ろうと思う。