進化する魂

フリートーク
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討論に負けない方法

2010-04-20 11:05:54 | 哲学・思想
前回のエントリで「ハーバード白熱教室」中の「リバタリアン・チームのレベルが低い」ことを取上げたが、どうレベルが低いのかについて説明していなかったので、少し書くことにする。

サンデル教授は、第3回のリバタリアニズムの議論を展開する前に、リバタリアニズムが依拠している考え方として「自己所有権※」について触れている。
ノージックらが提唱するリバタリアニズムがロック的な自己所有権に依拠しているというのだ。(私が知る限りジョン・ロックの所有権論は一様ではなく、グーグルで検索すると多くの解釈が存在することがわかる。なので、ここでは独断と偏見で私的解釈に基づくものを採用する。)

自己所有権というのは「自分の所有者は自分」という権利だ。
すべての人が自分自身の身体に対して所有権を持っており、所有権は労働によって獲得され、保持される。
自然状態から労働により生み出されたものは、その労働主の所有物である。
リバタリアニズムでは、労働によって生み出された利益は労働主の所有物であり、それを税金などで徴収するのは強制労働に等しく、つまり徴税国家とは国家による奴隷制に等しいというのだ。
ゆえに、個人の裁量では達成できない警察や消防、国防などの最小限の公共財に国家の役割を限定すべきであり、これが「小さな政府」への流れとなる。

サンデル教授は、このリバタリアニズムへの賛同者と反対者に分けてディベートをさせるわけだが、ある程度この手の議論に慣れ親しんだことのある人なら、この時点でサンデル教授のトラップに気づくはずだ。

「あ~、サンデル教授め、最初からリバタリアン・チームを崩壊させるつもりだな」と。

どうしてか。
それは、サンデル教授が「リバタリアンとは・・"自己所有権"に依拠している・・」と話を展開しているため、その議論の中で生まれるリバタリアン・チームは必然的に「自己所有権」に依拠した議論を展開することになる。
そして、あろうことかリバタリアン・チームは、そのままサンデル教授の術中にはまり、「自己所有権」を前提として議論を展開してしまう。

馬鹿である。
私が反対陣営なら真っ先に「自己所有権」を攻撃するからである。
これはディベートの基本中の基本だが、相手が依拠している前提を崩しにかかって、それに成功すれば相手を総崩れさせることができる。
現実に、講義の最後の方で、ある学生から「自己所有権に対する疑念」が投げかけられ、サンデル教授が待ってましたと言わんばかりに取上げていた。
初めから彼のレールの上に乗っかっていたのだ。

「反証可能性のないものは科学ではない」という言葉があるように、どんな科学的理論も、必ず反証可能性を含んでいる。
反証可能性というのは「前提」のことだ。
どんな理論にも「この理論が成立するのは、その前提に○○条件が成立する場合にのみ限る。」という前提が必ずある。
「反証可能性」という言葉からもわかるように、前提が崩れれば反証成立である。
その時点で、どれだけ輝かしい理論も崩壊するのだ。

だから、例えばプレゼンする時には、手馴れている人は必ず議論の初めに「前提」を明確にしておく。
自分の責任範囲を明確にする上でも、発信者には必須の要件である。
つまり、「この前提が成立すれば、この考えは真である。」というのが普通。
前提が共有されていれば、考え方について正しいかの議論となるし、前提が怪しければ、前提が正しいかの議論になるだろう。

もし、ディベートで相手に勝ちたいのなら、相手の「前提」を掴み、攻撃することだ。
逆に負けたくないなら自分の「前提」を掴まれないことである。

もう一つ、ディベート・テクニック(寝技)を披露しておこう。
討論などをしていて、負けそうになった時、よく使われるテクニックだ。

それは、「前提」を「反証不能領域」に持っていくことだ。
「反証可能性がなければ科学ではない。」ということは、つまり「科学的理論は全て反証されるもの」なのである。
つまり、どのような科学的理論も負ける可能性を含んでいる。
そこでだ。
負けたくない場合、非科学的理論を打上げればいいのだ。
「前提をひっくり返される=負け」なのだから「ひっくり返されない前提=負けない」を使うのである。
それが、正しいか正しくないのか、説明付けられない前提に依拠すれば、絶対に負けない。
「神の存在証明」と同じく、物事は否定しきることができないからだ。
「神の存在証明=神が存在しないということは証明できない。」
神がいることを説明できなくても、神がいないことも説明することはできない。
神を存在することを説得するのは難しいが、神が存在しないと言い切ることはできない。
つまり、負けないのだ。

前提を反証不能領域に持っていくと、あとは神学論争になる。
そうなると、論理の正しさよりも、「物語としての説得力」が勝敗の分かれ目となる。
より多くの人を納得させられた方が勝ちだ。

この論法を多用する組織は地球上に多い。
宗教組織がその典型だ。

(私は勝つことを目的に議論しているわけではないが)
私は、これまで数多くの宗教関係者と議論してきたが、まず勝てない(負けもしないが)。
最初にお互いの知識をけん制しあったあとは、物語比べ(知恵比べ)になる。
どちらが想像力と創造力を発揮できるかの勝負だ。

もしあなたが「宗教団体に入る人なんか頭悪い」と考えているなら、それは相当な勘違いである。
そういうあなたこそ、そういう団体に入る可能性がある。
彼らはかなり頭がいい。
ある有名宗教団体の幹部などは、非常に頭がよかった。
その辺のボンクラ心理学者程度やビジネスマンなら負けると思う。
哲学者としては当然この手の話は既知なので神学論争になるだろう。
(妄想族の端くれたる私ですら妄想負けを覚悟したほどであったが、長期間の往復書簡の末、最後は理解し合えないということで途絶した。)
彼らは、ここに書いてあるディベート・テクニックを熟知しているのだ。
なんとも恐ろしいことだ。

問題は、議論の「前提」に気づく能力があるかどうかなのだが・・。