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進化する魂

フリートーク
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[家族] 「虐待」から日本を考えるシリーズ 初め

2010-04-15 20:14:28 | 社会
何を観察するとしても、「視点」が非常に重要だ。
我々人間は限られた情報の中で評価をするなり判断をするなりしているが、得られる情報は「視点」によって大きく変るからである。
人間界に見られる「意見の違い」は、「視点の違い」からくることがほとんどかもしれない。
それほどまでに「視点」は重要なのである。

もう一歩話を進めると、その「視点」は「信念」によってつくられる。
「信念」の違いが「視点」に与える影響は大きい。
「信仰」の違いは地球上にある大きな問題の一つだ。

見ているもの、聞いているもの、考えているもの、そして信じているもの、これは宇宙の全てではない。
あくまでも、ある「視点」からみえる限られた情報の下での評価なのである。
人間の五感という入力器官を絶対視している人もいるかもしれないが、人間が五感から得られる情報はあまりに少なく小さい。
この宇宙にある情報の、ほんの、極めてわずかなものしか、我々は入力として認識することしかできない。
この宇宙には、あなたが見ていないもの、聞いていないもの、考えていないもの、信じていないもの、これらの方が圧倒的に多いのだ。

何かをみるときや考えるときには、決して、このことを忘れてはならない。


さて、当Blogでは、様々な物事を考えるにあたって「視点」を重要視している。
当Blogのコアコンピタンスは「スピリチュアル」であろう。(登場回数は少ないが)
それに続くものとして「恋愛」「結婚」などを提案してきた。(これも登場回数が少ない)
人間がつくる社会を語るにあたって、人生を大きく左右する「恋愛」は外せないと考えるからだ。

そして、今日ここにまた新たな「視点」を用意することにする。
「家族」そして「虐待」である。

社会や世相を表す指標は数多く提唱されている。
特に最近の日本では「自殺」や「無縁」などがそれにあたるであろう。
それも重要な視点である。
だが、私は「虐待」というワードに一際注目している。

現在、日本では年間4万件の児童虐待と、50件程度の虐待が理由による死亡が報告されているという。
これまでは表に出てこなかったこともあるだろうが、少子化にも関わらず増加傾向だ。
私が思うに、報告されていない件や準虐待なども含めれるとこの30倍のスケールはあると考えている。
(根拠はないが、自分の経験則とハインリッヒの法則「1つの大事件の裏には30の小事件がある」を参考にしている)
つまり、年間120万件程度の虐待が起きていると考える。
そして、これが社会に与える影響は計り知れないほど大きい。

なぜそう考えるのかを説明する。
虐待が子供に与える影響は、大人が考える以上に、根深くて大きい。
虐待を経た人間の精神はある意味で病む。
劣悪な環境が、幸福への精神構造を複雑化するのだ。
人間は、自分の裁量が極めて限られた環境下で虐げられると、自己アイデンティティを保つために、様々な試行錯誤を行う。
重度な場合には、多重人格や精神分裂症などもこの流れの中で起きるが、そこに至らぬ場合においても、何がしかの重大な影響を精神に受ける。
結果として、短絡的、悲観的、他者への負の連鎖(他者の幸福の拒絶)、これらを生むのである。
人類の歴史的に見ても、虐げられている民族の中には救世主願望が生まれたり、排他主義的な思想が蔓延したりする。
そして、この問題の最も深刻な点は、本人にその自覚がないことである。

精神を病むことの最大の問題は、その症状に本人が気づかないところである。

「信念」の段階で刷り込まれた「視点」と、その視点から見える「世界」を事後的に変更するためには、信念を変えることによってしか変えることはできない。
これは、並大抵の努力では成し遂げることができないことである。

児童虐待は、その人の人格形成に社会的に見て大きな負の影響を与える。
そして、その負は連鎖する。
そして、その影響を取り除くのは至難の業なのである。

「虐待」を新たなテーマに据えるといっても、虐待を無くすことがそのまま社会の構造を変革することに繋がるかというとそうは考えていない。
そうではなくて、社会の軋みは、社会の最も弱いところに表れると考えるからこそ、虐待というテーマに意味がある。
この我々が置かれている社会の軋みが、末端の家族の、さらにその末端の個人の、その子供のところに表れる。
日本社会は、これまで「家族」や「子供」に向き合ってくることをしてこなかった。
それは、日本という社会が、「あるべき個人」を規定せぬまま来たからだ。
宗教原理が働くような社会では「善良なる個人」が定義されている。
「個人」のない世界には「社会」もまた存在しない。
この宇宙では、全ての価値観は相対性によって生まれるからであり、対立するものがない価値観は存在することはできない。
日本にあったのは「和」であり、個人はそこに溶け込んでいた。
境界は曖昧で、自己アイデンティティと組織的アイデンティティの区別もつけることが難しいほどであった。

だが、日本を取巻く環境は変った。
日本には「社会」と「個人」が輸入され、そして極当り前のような顔をして我々とともにある。
我々は、この日本的な異常さに自覚的ではない。

自殺、無縁、少子化、虐待といった社会現象ともいえる問題は、全てこの日本的な異常さから来ているのだ。
資本主義による経済的発展は、これを後押ししたものの、根本的要因ではない。

今、日本人の前には2つの道がある。
「社会」と「個人」を自覚的に受け止め、そして適応することで、新しい日本人として生きる道。
そして、「社会」と「個人」を廃絶し、日本人たる由縁を取り戻す道。
どちらを選ぶかだ。

当Blogでは、答えを用意するつもりはない。
答えなど存在しないからだ。
答えは望む数だけ、無限にある。(無限=ないと同じ)
日本人が何を目的に生きようとするか、それ次第だ。

ただ、ある視点を用いて、日本社会を側面から観察することによって、様々な答えを見出すことの一助となる覚悟はある。
(のかもしれない・・)


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