goo blog サービス終了のお知らせ 

進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[つぶやき] 体調不良

2010-04-05 12:28:16 | ブログ情報(News Release)
先週は心身ともに疲労困憊しておりまして、エントリの更新をサボり続けておりました。
今日の朝起きるまで体調が悪かったのですが、全快とまではいきませんが、どうにか回復したようです。
都市生活を送っているとどうしても、体のメンテナンスを怠りがちになってしまいます。
気づけば4月で、街は新生活をはじめる人々のためか、浮ついた雰囲気で満たされておりますが、私の生活からはどうにも季節感というものが失われてしまっています。
今年は2回、花見をしたのですが、花見と言うイベントがあるのみで、自然の中にいて季節を肌身で感じるというのとは少し違う気もします。

よくメディア上で養老孟司氏が「人間にとって都市生活は異常状態で、まだ全然適応できていない。」というようなことを言われているのを見かけるのですが、まさにその通りだと実感しております。
私などは仕事で一日中PCに直面しているわけですが、このような目の使い方は人類にとってほんの数十年の歴史でしかないわけで、体にとって不都合の嵐の中にいるようなものです。

たまにあるのですが、健康診断等で食事制限を課せられた人達が私に言います。
「美味いものを体が欲しているのだから、体に必要なものなはずだ!医学がおかしい!」と。
私はこう答えます。
「人間ってずっと飢餓状態に置かれてきたから、美味いものを求めたところで得られなかったし、むしろ美味いものを強く求めることが、ちょびっと美味いものを手に入れるのに役立ったと思うよ。現代のように美味いものが大量に手に入れられる環境が、人間にとって異常なのだよ。体がまだ適応できていないのさ。きっとね。」と。

適応ってそんなに早く行えるものでじゃないんですよ。
遺伝的な適応という話になれば、それこそスケールが大きすぎて、学問としてしか語れないような世界の話になってしまう。
それに、そういう「適応」は常に「環境の変化」について後追いですね。
環境の変化を先見的に感知し、適応を先に駆動するということもあるでしょうが、そのメカニズムはよくわかりません。
ギャンブルのようなものなのか、どうか、そこが難しいところです。

だって、後追いする適応は、後追いするから既成事実に合わせた変化ですが、事前に適応するってことは間違う可能性があるってことです。
適応の仕方を誤れば、即死に至ることもあるわけですから。
こういう場合は、個で見るでなくて、群で見るんですね。
いわゆる生物学的多様性っていうのは不確実性に対応するための知恵みたいなものです。
無数の適応パスの中から、生き残ったパスが、さも正しいかのように見えるのは「生き残りバイアス」と呼ばれるものです。
生き残るために、無数の可能性を前提に多様性を維持する。
個で戦っても勝てないなら、協調することで生き残りに賭けるわけですね。
誰か設計者がいて、そう設計するわけではなく、個として協調した結果、全体として見た時に一つの戦略になる。
というパターンも結構あるんですね。
運が良く生き残れば神の設計と呼ばれる。

と、これが一般的な適応に関する考え方なのではないかと思うのですが、私は多様性について少し違った観点で見ています。
それはまた後日。


と、なんだかな話をしつつ、アゴラを見ていてなるほどなと思ったエントリを紹介します。

食料自給率はゼロでもかまわない:安全保障の観点から (站谷幸一)
http://agora-web.jp/archives/974988.html


私個人としては「食料自給率」っていうのは日本の政策課題になりえないと思うわけですよ。
なぜかっていうと、まず、政策が果たすべき目的としての「食料自給率」が有り得ないからです。
「目的=食料自給率」はおかしいですよね。
だから、食糧安全保障の観点から自給率を述べる意見が多いのですけれど、「食料安全保障の目的って何ですか?」ってことですよ。
目的は、日本人が食べるものに飢えないこと、付け加えれば食文化(食事を楽しめるとかそういうこと)を守れることだとしましょう。(生活水準が落ちないことなのかな)
でも、その対策のために飢えたら話しにならんですよね。

国の飢餓状態を解決するために(「国を守るために」にしておこう)、戦争に勝たねばならない。
しかし、戦争に勝つために軍事偏向の政策をとっていたら国民が飢えた。
その上、ボロボロに負けて、極めて飢餓状態に置かれてしまた。
みたいな話と同じなんじゃないかと思うんですよ。

やっぱり、一つ一つの問題に凝るのは、日本人的気質だと思うわけではありますが、目的と手段を履き違えたらあかんですよ。
でもね、手段にこっちゃうのがブリコラージュたる日本人だとも思うわけであります。