近頃問題視される案件に「世代間格差」がある。
確かに日本の富は高齢者に偏っている。
若者は所得も低く資産もない、その上、将来的に所得が向上する見通しはない。
今、最もマネーを必要としている人々にマネーが回らず、消費性向の低い高齢者がマネーを滞留させている。
このアンバランスを是正するための案として、資産に対する課税、相続・贈与税の低減などが提案されている。
ご指摘ごもっともであるが、しかし、そのような施策で、このアンバランスが解決するとは私には到底思えない。
そもそも、この世代間格差問題をアンバランスとして考えること自体が、少なくても当事者(高齢者)にとっては「椅子取りゲーム」にしか思えず、不信を生み出すだけだからだ。
説明は後述するが、この問題を解決するにあたって最も重要なことは「信頼」である。
マネーが市場を通じて循環するために基本的に必要なものが「信頼」であるからだ。
不信が生まれては、解決から遠のくだけだ。
「世代間格差」問題を「富のアンバランス」の問題として捉えてはならない。
この問題は、国家が真なる意味で市民を国民として統合できるか否かという、国家の基本的問題なのである。
日本で国家間が語られることは少ない(一部の過激系の人達は語っているけれど)が、「国家」が今、その存在意義を問われているのだ。
まず、基本的なところに立ち返ってこの問題を考えてみよう。
高齢者は、なぜ日本の富のほとんどを所有していながら、それを消費しようとしないのか。
答えは簡単である。
今持っている富では、自分が安心して暮らしていくには不十分だと考えているからだ。
日本人が、どの程度の生活水準をどの程度の期間だけ維持していかなければならないか、そのためにどの程度の富を必要とするのか、という問いに明確に答えられるわけではない。
だが、生活水準をさほど落とすことなく人生を全うするためには、相当の富が必要である、という認識だけは共有されている。
その生活水準や額について、明確な指針があるわけではないし、その生活水準を維持したからといって幸福が約束されているわけでもない。
ただ、いざという時に誰かが自分を助けてくれるという保証はないし、誰かに迷惑をかけて生きていくのも自尊心が許さないし、最後まで自立して生きていくことを人間の生き様として善しとするなら、そのためにはやはり先立つものが必要だと思うのは自然のことである。
ここで「あなた達が富を独占しているから若者達は飢えている」と言われても、自分はモノもなかった若い時から、それなりに努力をして、時にはそれこそ社会保障なんてない時代から砂を噛む想いもしながら得た労働の対価として、今の富を手に入れたつもりだから、それを無償で分け与えろというのは都合のいい話だと思うだろう。
自分達は前の世代を世話してきたし、モノも何もない時代からここまで日本が発展できたことの一因として自分達の貢献があるのだから、それなりの境遇は用意されるべきだとも思うだろう。
リバタリアニズムの見地から言っても、労働の対価を搾取するのは奴隷制に等しい。
どうして自分達が、働かない若者の奴隷として搾取されなければならないのかとも思うだろう。
そりゃ、誰かの役には立ちたいし、社会的貢献もしたい。
ある程度の自己犠牲があっても自分がこれまでの人生で得た知識や技術を社会に還元したい気持ちもあるだろう。
だけれども、自分だけが貧乏くじを引くことを恐れているのも確かだ。
高齢者は自分達が社会的に弱者だと考えているし、若者は自分達が社会的弱者だと考えている。
何が問題なのだろうか。
私はこう考えている。
我々、日本人は「社会的弱者が何か」という問題にすら答えられない、いや、答えようとしてこなかったのだ。
絶対的、相対的に関わらず貧困率を調査するしないなどという話のその前に、我々は貧困と社会的弱者の区別ですらわかっていない。
我々は、社会に関する価値観について、何ら共有していない。
社会なんてものを知らなかったからだ。
社会的弱者という場合に、まず社会がわかっていないのだから、弱者もわかるはずがない。
国家が何らかの役割を果たすべきであろうという議論の中で出てくる社会的弱者のイメージも全く共有されていない。
各々が好き勝手にそれぞれのイメージを述べているに終始し、それを主義思想の違いなどといって自ら迷宮に入り込むのだ。
日本人は「国家」というもの自ら作り上げたつもりもないし、それがどういうものかもわかっていない。
いや、わかっていなければならないわけではない。
自生的に発生する国家もある。
しかし、自分達が国家というものについて「わかっていない」ということを、日本人はわかっていない。
社会についても同様だ。
・・・いいところなのだが、時間がないので続きはまた今度。
確かに日本の富は高齢者に偏っている。
若者は所得も低く資産もない、その上、将来的に所得が向上する見通しはない。
今、最もマネーを必要としている人々にマネーが回らず、消費性向の低い高齢者がマネーを滞留させている。
このアンバランスを是正するための案として、資産に対する課税、相続・贈与税の低減などが提案されている。
ご指摘ごもっともであるが、しかし、そのような施策で、このアンバランスが解決するとは私には到底思えない。
そもそも、この世代間格差問題をアンバランスとして考えること自体が、少なくても当事者(高齢者)にとっては「椅子取りゲーム」にしか思えず、不信を生み出すだけだからだ。
説明は後述するが、この問題を解決するにあたって最も重要なことは「信頼」である。
マネーが市場を通じて循環するために基本的に必要なものが「信頼」であるからだ。
不信が生まれては、解決から遠のくだけだ。
「世代間格差」問題を「富のアンバランス」の問題として捉えてはならない。
この問題は、国家が真なる意味で市民を国民として統合できるか否かという、国家の基本的問題なのである。
日本で国家間が語られることは少ない(一部の過激系の人達は語っているけれど)が、「国家」が今、その存在意義を問われているのだ。
まず、基本的なところに立ち返ってこの問題を考えてみよう。
高齢者は、なぜ日本の富のほとんどを所有していながら、それを消費しようとしないのか。
答えは簡単である。
今持っている富では、自分が安心して暮らしていくには不十分だと考えているからだ。
日本人が、どの程度の生活水準をどの程度の期間だけ維持していかなければならないか、そのためにどの程度の富を必要とするのか、という問いに明確に答えられるわけではない。
だが、生活水準をさほど落とすことなく人生を全うするためには、相当の富が必要である、という認識だけは共有されている。
その生活水準や額について、明確な指針があるわけではないし、その生活水準を維持したからといって幸福が約束されているわけでもない。
ただ、いざという時に誰かが自分を助けてくれるという保証はないし、誰かに迷惑をかけて生きていくのも自尊心が許さないし、最後まで自立して生きていくことを人間の生き様として善しとするなら、そのためにはやはり先立つものが必要だと思うのは自然のことである。
ここで「あなた達が富を独占しているから若者達は飢えている」と言われても、自分はモノもなかった若い時から、それなりに努力をして、時にはそれこそ社会保障なんてない時代から砂を噛む想いもしながら得た労働の対価として、今の富を手に入れたつもりだから、それを無償で分け与えろというのは都合のいい話だと思うだろう。
自分達は前の世代を世話してきたし、モノも何もない時代からここまで日本が発展できたことの一因として自分達の貢献があるのだから、それなりの境遇は用意されるべきだとも思うだろう。
リバタリアニズムの見地から言っても、労働の対価を搾取するのは奴隷制に等しい。
どうして自分達が、働かない若者の奴隷として搾取されなければならないのかとも思うだろう。
そりゃ、誰かの役には立ちたいし、社会的貢献もしたい。
ある程度の自己犠牲があっても自分がこれまでの人生で得た知識や技術を社会に還元したい気持ちもあるだろう。
だけれども、自分だけが貧乏くじを引くことを恐れているのも確かだ。
高齢者は自分達が社会的に弱者だと考えているし、若者は自分達が社会的弱者だと考えている。
何が問題なのだろうか。
私はこう考えている。
我々、日本人は「社会的弱者が何か」という問題にすら答えられない、いや、答えようとしてこなかったのだ。
絶対的、相対的に関わらず貧困率を調査するしないなどという話のその前に、我々は貧困と社会的弱者の区別ですらわかっていない。
我々は、社会に関する価値観について、何ら共有していない。
社会なんてものを知らなかったからだ。
社会的弱者という場合に、まず社会がわかっていないのだから、弱者もわかるはずがない。
国家が何らかの役割を果たすべきであろうという議論の中で出てくる社会的弱者のイメージも全く共有されていない。
各々が好き勝手にそれぞれのイメージを述べているに終始し、それを主義思想の違いなどといって自ら迷宮に入り込むのだ。
日本人は「国家」というもの自ら作り上げたつもりもないし、それがどういうものかもわかっていない。
いや、わかっていなければならないわけではない。
自生的に発生する国家もある。
しかし、自分達が国家というものについて「わかっていない」ということを、日本人はわかっていない。
社会についても同様だ。
・・・いいところなのだが、時間がないので続きはまた今度。