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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

日本は「日本」を主張せよ

2010-04-07 12:07:54 | 政治
中国の大連にて、麻薬密輸罪で1人の日本人に対して死刑が執行されてしまいました。
日中国交正常化の1972年以降、初めてのことのようです。
また立て続けに3人の死刑が執行されるようです。

これはとんでもないことです。
日本という国は一体何のために存在しているのでしょうか。
なぜ、日本の政治家やマスコミや国民はもっと怒らないのでしょうか。

日本人がこういう問題について冷淡なのは、私は重々承知しております。
違法なことや人道に外れること、和を乱す行為をはたらいた者について、日本人は残酷なまでに見下します。

思い出してください、日本人達は渡航禁止令を出している国へ行ってテロリストに拉致された人々を徹底的に責めました。
オリンピック出場選手の服装がだらしないとして、制裁を加えるべきだという意見が噴出しました。

「麻薬を密輸しようとした奴なんか助ける必要はない。」
「むしろ日本でも麻薬に関する犯罪は死刑にしてもいい。」
「暴力団員なんか社会的に抹殺された方がいい。」
こんな意見が聞こえてきそうです。

ただ、それとこれとは別次元の問題です。
別次元の問題を混同して考えてはいけません。
ここで思考停止して論理の単純化に甘んじるようでは、この国の行方は危ぶまれます。

「赤野光信氏が死刑に値するかどうか」
という問題と、
「中国で日本人が中国の論理で裁かれた」
という問題は全く別の話です。

いいですか、これは国家間における非常に重要な問題です。

私には、赤野氏が死ぬかどうかなんて興味がありません。
人間はいつく死ぬし、生きていても他人に迷惑ばかりかける人は大勢います。
社会に害をなすマイノリティーは社会的に抹殺された方が、圧倒的多数の人々は生きやすいかもしれません。
しかし、中国の論理で日本人が裁かれて、その上、死刑ですよ。
法律というのは、神から与えられたものでもなんでもなく、自分達が考えた答えのようなものです。
日本の法律は、日本人が考えた社会的規範であり、ルールであり、モラルなわけです。
国によって法律が異なるのは、国によって価値観が異なるからであり、目指す生き方が異なるということです。

例えてみましょう。(これは論理のすり替えではありません。)
あなたは子供を育てています。
あなたの家では、子供はのびのび育つべきだと考え、順番待ちのような教育は緩やかにしています。
あなたは社会的な規範については、徐々に自覚していけばよいものと考えています。
あなたの子供が、お友達のおうちに遊びに行ったときのことです。
あなたの子供は、そのお友達の遊ぶおもちゃを横取りしました。
すると、お友達の親はあなたの子供を平手で打ちました。
子供は泣き、頬を腫らします。

あなたは、どうしますか?

ここでも"郷に入っては郷に従え"を通しますか?
文句をいいませんか、少なくても苦言を呈するでしょう。
「たしかに、お行儀の悪い事をした。しかし、そこまでやる必要はないだろう!!」と。
しかしお友達の親は言うでしょう。
「これは、"しつけ"です。我が家ではいつものことですよ。」と。

さて、あなたはどうしますか?

もしかすると、あなたの教育方針が、友達の親と同様に厳しいしつけを実施していたら、同意するかもしれません。
時代が昭和30年代なら、近所のオジサンにゲンコツを食らうのも許せたかもしれません。
でもそれは、同じ価値観を共有する人々の間だからです。

中国と日本、日本と中国、同じ価値観を共有していますか?

さぁ、あなたならどうしますか?

鳩山首相は所信表明演説で「いのちを守りたい」と声高に叫んでおりましたが、この出来事をどう説明するつもりなのでしょうか。
結局、ムラ社会からはぐれた奴は面倒を見ない。
そういう意味なのでしょうか。
むしろ、上記でした国家を親のように見る話は、パターナリズムの一種だとして、批判されるのでしょうか。
それならそれでいいです。
しかし、だとすれば、彼らの主張する政策は全てが茶番ということになるでしょう。

何はともかく、日本人がこの問題を全く重要視しないことに、この国の病巣は根深いと危惧するばかりであります。
このことについては、後日私的日本論の側から述べたいと思います。

保守とバランス

2010-04-07 10:27:09 | 哲学・思想
平沼新党ですか。
平沼氏といえば日本的「保守」陣営の代表的政治家ですね。

「保守」といっても、いろんな「保守」が乱立していて、「私は保守だ」といっても、どの「保守」なのかさっぱりわからないのが、日本の現状です。

論理の単純化ということで批判されるかもしれませんが、説明してみます。

「守るべきものとは何か?」
これが彼ら保守陣営の問題提起で、「守るべきもの」の違いが、立場の違いです。

それで、今回の新党騒ぎを見てみましょう。
石原慎太郎氏が絡んでいることからわかるように、彼らの「保守」とは、「古きよき日本の伝統」を守ることです。
というと単に守旧派と思われがちですが、基本的には「改革する保守」というのが彼らの主張です。
保守というと、変化を認めない人達というイメージが強いかもしれませんが、時代とともに変えるべきところは変えるが守るべきものは守る、これが「改革する保守」です。

と、書いてみたところでみなさん理解されると思うのですが、要は「保守」という立場を表明しただけでは、その人達が何を保守するのかは明らかではありません。
若い人達の間では「保守」というだけで嫌気がする人もいるかもしれませんが、その辺りについては誤解しない方がいいでしょう。

保守陣営の根底にあるものはなんでしょうか。
それは、長い年月を経て生き残ってきた伝統や文化、制度といったものは、歴史という長い時間をかけて有効性を検証されてきたものなので、個人の思想や思いつき、経験を遥かに超える価値があるはずだと考えることです。

「それが何なのか?」
という問いについて具体的な言葉で表現できないからこそ、伝統や文化、制度といったものに含まれている暗黙知を大切にすべきという発想には、説得力があります。
無駄なものは歴史の中で破棄されるはずで、残るものにはそれなりの価値がある、その価値は明確かつ具体的には言葉で表現できないため、気を抜くと失われてしまうものだから、連続性を大事にしよう、アメリカのような歴史の浅い国の浅はかな文化を無防備に取り入れるのはやめるべきだ。
ということですね。

これに対して、アメリカ型の保守はだいぶ違います。
さきほど説明した保守な人達からは科学原理主義と揶揄されることもあります。
間違った原理に基づいて気づかれた伝統や文化、制度に固執するのは損失であるから、明らかな科学的で合理的見地に基づいて伝統や文化、制度を構築していくべきと考えます。
わかりやすい例は、天動説と地動説ですね。
たとえ1000年の長きにわたって天動説が支持されてきたとしても、それが科学的に誤りなのであれば、天動説を直ちに破棄し、地動説に基づいてあらゆるものが再構築されるべきなのです。
こういったいわば革命を実現するためには「自由」が重要ですね。
これは、中世において逆に地動説が棄却されたことを考えれば想像し易いでしょう。
だから、彼らは「自由」を賛美します。
新自由主義もこの流れで読み解けば、彼らが無知蒙昧などではないことがわかるでしょう。

前者の保守が目指すものが「漸進的な進化」なのだとしたら、後者の保守は「合理による革命」といえばわかりやすいかもしれません。

さて、超簡単に「保守」について説明してきましたが、平沼氏は前者の保守についての代表的政治家です。
この保守は、自民党におられるベテラン政治家には多いです。
以上の説明を読めば、そんな彼らが「郵政民営化」に反対なのも当然といえば当然です。
石原慎太郎氏のナショナリズムも、わかりやすいでしょう。

一方、河野太郎氏のような若手のアメリカナイズされた政治家は後者の保守を主張しています。
どちらが正しいのか、は簡単には言うことはできません。
場合によって、どちらも正しくなるからです。
問題を解決しようとする急進的な改革がさらなる大問題を引き起こす可能性はありますし、逆に間違った見識に従った政策が非合理に継続され続けることもあります。

そこで登場するのが「中庸」ですね。
バランス感覚を大事にしようとするわけですね。
で、さらに問題は、みんな「自分は中庸だよ」って思っていることです。
つまり、「自分はバランス感覚のある人間だ」と誰もが思っていることです。
鳩山首相はこの代表的人物だと思われます。

ここで注意してもらいたいのは、「バランスがとれている状態」が必ずしも全員にとって嬉しいわけではないことです。

幾つかのケースで考えてみましょう。
AさんとBさんとCさんがいます。
3人は事前に集金した会費のみを持って街へ食事へ繰り出しています。
さて、帰りの時間になりました。
会費の余りが300円あります

■ケース1
単に100円ずつ分配する

この場合、100円ずつ分配するのが平等だし、バランスがとれますね。

■ケース2
3人とも帰るのに電車賃(150円)が必要です。
300円を100円ずつ分けたんでは、3人とも帰れません。
100円ずつ分けることが最も平等だと思われますが、この場合効用は限りなく0に近いです。
150円ずつ分配するなら1人は帰れませんが、2人が帰れます。

この場合、バランスが取るとはどういうことでしょうか。
平等を重視するならバランスを取るのは100円ずつ配ることになるでしょうが、効率を考えるなら150円ずつ2人に配るですね。

■ケース3
Aさんは帰りの電車賃が200円で、BさんとCさんと帰りの電車賃が100円です。
この場合、バランスをとるとはどういうことでしょうか?
BさんとCさんが電車を使うとAさんが帰れませんが、Aさんが電車で帰るとBさんとCさんのどちらかが帰れません。
家が遠いAさんを優先するとBさんとCさんの仲が悪くなるかもしれませんね。
逆に家の遠いAさんよりも、家の近いBさんとCさんを優先するとバランスがとれると思うかもしれませんが、Aさんが一番家が遠いのに電車で帰れないなのです、Aさんとの仲は悪くなるかもしれません。

■ケース4
ケースを上げるとキリがないのでこれで最後にします。
Aさんは帰りの電車賃が200円で、Bさんは150円で、Cさんは100円です。
どういう分配がバランスがいいでしょうか。
許される組み合わせは以下です。
AさんとCさん
BさんとCさん
Aさんのみ
Bさんのみ
Cさんのみ
とりあえず、Cさんは帰れそうですが、AさんとBさんは二者択一です。
Cさんは立場が優位ですが、優位だからこそAさんとBさんに恨まれるかもしれません。
平等を重視するなら、100円ずつ分配してCさんのみ帰るという選択肢がバランスがとれているでしょうか?
一番近いCさんのみが電車を使うのですか?

と、4つのケースを上げて考えてきましたが、何が言いたいかというと、何も条件がなければ平等に分配することが、イコールでバランスを取るということになりますが、条件がつくと平等=バランスにはならないということです。
そもそも「バランスがとれている状態」を定義することすら難題なわけで、「自分はバランス感覚のある人間だ」と考えている人間ほど偏向している可能性があるということがいえるわけです。
(「自分の価値観に基づいてバランスする」という意味だから)

そういう意味では、「守るべきものは何か?」と決めて、その価値観に偏向することに割切るのもありなのです。


当Blog流にいえば、この相対的な宇宙の中で、基準なしに何かの価値を決めるということが不可能だということなのです。

守るべきものは何でしょうか。
(守るべきものなんてないという発想も有り)
一度考えてみてはいかがかと思います。