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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

守るべきものはコミュニケーションの多様性である

2010-04-09 20:01:00 | 社会
保守とバランス
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/01772273716f867c7f763748d2ad060a

当Blogでも保守に関して書いたのだが、池田信夫氏がいいことを書いていたので、彼のエントリにコメントしてしまった。

何を保守するのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51404577.html

今の日本は、社会主義の崩壊後の東欧圏に似ている。たとえば自殺率の国際比較をみると、図のように日本は世界第8位で、上位は旧社会主義圏ばかりである。市場を導入して生活がよくなるかと思ったら、曲がりなりにも安定していたコミュニティが崩壊し、企業倒産や失業が激増したためだ。

これは日本の90年代と似ているが、もう一つの共通点は社会主義国には資本市場も労働市場も存在しないことだ。社会主義の建て前では倒産も失業もありえないので、破綻処理の制度も職安もない。職を失った人々は、Shleifer-Treismanの表現によれば「地図なし」の廃墟の中で手探りで職をさがさなければならなかったのだ。

だから現在の日本の不安を解消するために必要なのは、平沼=与謝野新党のいうような過去への回帰ではなく、個人が「一所懸命」に同じ所でがんばりつづける日本的伝統から決別し、新しいコミュティに移る(あるいは作り出す)ことを容易にする制度設計ではないか。「アゴラ」のような仮想空間からも多くの出会いが生まれ、会社までできた。それは農村のような強固な共同体ではないが、あれほど息苦しいコミュニティでもない。


私のコメント(コメントしたばかりでまだ承認されていない)
800字制限があるのでかなり削らないといけなかったのが残念だ。


私はこの問題提起は非常に重要だと考えています。
「人と人とが結びつくことができること(コミュニケーション)」は人間にとって根源的に重要なことだと思います。関係性にこそ意味は発生するものだと考えるからです。そして「自由」も「コミューン」もそのための一つの媒体であると考えます。人は時に自由を使って新たな出会いを求めるし、時にコミューンの仲介機能を使って繋がりを求めます。資本主義は自由に力を与え、伝統的コミュニティを壊したように見えるかもしれませんが、それは時代とともにコミューンに対する必要性が変化するからです。コミューンは本来の意味からして環境が変われば新しい内容で更新されるべきです。
平沼氏などが語るのは、言葉で表現できぬ美意識のようなものが日本人にとって重要なのであり、それを守るために、それがビルドインされている伝統的コミュニティを守る必要があるという話だと思います。ここから一歩進むには、その美意識が何なのか?ということを発見せねばなりません。わからぬので連続性を守ろうとします。

もし、伝統的コミュニティが守ってきたものが、私の考える通り、コミュニケーションなら、守るべきものはコミュニティではなくコミュニケーションの方だといえます。しかし、人それぞれに異なる形の欲求があるわけですので、みなで共通の器(コミューン)を発見することは難しく、だから人それぞれが、それぞれに適したコミュニケーション手段を手に入れることが理想で、それは選択肢があるということだと思います。選択肢を失う(絶望する)と、人は歩みを止めてしまうもので、逆に選択肢が有り過ぎても混乱しますが、コミュニケーションに選択肢があることは人生を自分責任で生きるのに非常に重要な要素だと考えています。
これとは逆に選択肢などあると考えるから人生に迷うのだという主張もあります。武士道です。


[追記]

10時過ぎ頃に家についてワイン飲みながらTVをつける。
すると、フジテレビは「我が家の歴史」で日テレは「ALWAYS 3丁目の夕日」を放映していた。
二つの局が同時に昭和の古きよき日本を題材とした番組とはね。
こういう状況を鑑みるに「立ち上がれ日本」も一部には受け入れられるんじゃないかという気もする。

そんなこと考えていたら、多分、こういう質問されるんじゃないかと思った。

「なんで昭和の時代は、貧しくても幸せだったのか?」

それは私のコメントにあるように、新しい発見との出会いがあったからだと思う。
経済の右肩上がりとかそういうことは環境要因で、主要因じゃないと考える。
生きてれば、それだけで新しい出会いが待ち受けていた。
どんどん環境が変化していたからだ。
だから、コミューン(共同体)が幸せの要因だったんじゃない。
コミューンは生活を保障するための役割を果たしただけだ。
つまり、土台になっただけ。
あくまで媒体でしかなかった。

ゆえに、私は保守派の人々が「伝統的コミュニティを守る」とか「古きよき日本の再興」を訴えると非常に違和感を感じるのである。
守るべきものが違うんじゃないか?と思ってしまうのである。

批判、反論なんでもご意見聞かせてください。
よろしくお願い致します。

中国での邦人死刑問題にみる、日本の問題解決力の低さ

2010-04-09 13:22:29 | 政治
<参考>
日本は「日本」を主張せよ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6e598b6caf8c161bc454e4de15c86750

怨念の国 日本
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/70062b17808c11e54ad2171cffa369c8

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中国での邦人死刑執行―感情の問題はあるが理性的に対応を(岡田克也)
http://www.katsuya.net/message/2010/04/08.html

中国での邦人死刑執行―感情の問題はあるが理性的に対応を(岡田克也)
http://news.livedoor.com/article/detail/4708479/

いずれにしても、この問題は理性的に対応しなければいけない問題だと思います。非常に難しい問題であり、感情の問題があることを認識しつつ、しかし、理性的に対応しなければいけないことを、国民の皆さんには申し上げておきたいと思います。


誰が感情的な反応をしているのかわかりませんが、少なくても私は冷静にこの問題を見ています。
感情面から批判の声が上がっていると考える時点で、この外務大臣はどうしようもないなという気がしてなりません。
その程度の現状認識能力しかないのでは政治家として大成しないだろうなと、ちょっと毒づいてもみます。
(個人的に「岡田克也という政治家」は好きですが、「岡田克也という外務大臣」は好きになれそうもないようです。まぁ私が好きかどうかは何も関係がありませんが)

まずもって、この問題について、私のような者には感情的になる理由がありません。
(麻薬密輸が悪いことなのか?というのは別に議論してもいいですが)
麻薬密輸に関係するような人間が社会的に排除されるのには賛同します。
繰返すように、死刑が執行された日本人が死のうが死ぬまいが私は構いません。

ただ、私が問題視しているのは、それと外交は別ですよという話です。

いいですか。
よく考えてください。

そもそも、なぜ国家治安当局は、人を裁くことができるのですか?
何の権限で?
それは、天与のものなのですか、それとも人によって創造されたものですか?

社会的に害をなすといいますが、そもそも「社会」ってなんですか?
その「社会」は、日本と中国で同じなんですか?
日本人の多くは、ジンバブエや北朝鮮と日本では「社会観が違う」と思っているんじゃないですか?

仮にあなたが北朝鮮にいて、体制に異を唱えたことで社会的に害をなす政治犯として収容され、かつ死刑判決されたら、「お前らの考える社会の方が害だろこのやろう!」とか言い放ったりしませんでしょうか。

これは極端な例ですけれども、でも中国が極端な国家でないことはどうやったらわかりますか。
さらにいえば、日本が極端な国家じゃないのはどうやったらわかりますか。

わからないですよ。
明日、神が降臨して、「これまでの世界は全部ウソだよん。おつかれちゃん。」などと言ったらどうしますか。

だから、我々は、精一杯慎重になるべきなんです。
特に、人を裁くということに対して。

死刑執行で治安が収まるなら、どうして共産圏の国々は崩壊したのですか?
歴史上、独裁国家が永続したことがありますか?(現在存在する独裁国家が続くかはわからないが)

ある著名な歴史学者がこういいました。


歴史上、「革命」と呼ばれるものは意外に少ない。
なぜなら、そのほとんどは鎮圧されて「乱」や「蜂起」などで終わっているからだ。
「革命」が成功するかどうかは、革命者達の動機や能力にはほぼ関係がない。
「革命」が成功するかどうかは、現体制それ自体が力を失い、崩壊しかけているかどうかに依る。


つまり、死刑などの刑罰で人心が治まるなら革命など起きない。
死刑や刑罰に社会的安定を保つ力が無いからだ。(ちょっと言いすぎだが)
本当に社会的安定を保ちたかったら、それは人々の理解によってしか成り立たない。
死刑が理解を得るのに有効ならそれでいいだろう。
厳罰化というのは、社会情勢への無理解から発生する発想なのだ。
原因がわからないから、罰則を強化して防ごうとする。
だが、そんなパッチワークでは根本的な問題は解決せず、結局はもぐら叩きになり、いずれ崩壊する。

日本の法律論からして、今回の麻薬密輸に対する死刑は明らかに過剰である。
岡田大臣は、中国の法律に関して口を出すことは、タブー(隣家の夫婦喧嘩に口を出すみたいなもの)だと主張しているのだが、本当にそうなのか。

お友達の親が自分の子供を平手打ちしたら「なぜ、そこで平手打ちする必要があったのか。」「その行為にどれだけの教育効果があるのか」「お前のストレスを発散させるためだけのものではないのか」あたりを問わねばならぬ。

こういうかもしれない。
相手:「そうはいっても、うちは平手打ちしないと子供が言うこと聞きません。」

私:「あなたの子供はそうかもしれないが、うちの子供がそうとは限らないだろう。」
私:「さらにいえば、そこで強制的に介入することに、一体どれだけ意味があるのか。」

相手:「ここであなたの子供を許せば、私の子供も許されると考えるかもしれない。」
相手:「我が家の秩序を保つためには、仕方がない。ここでは流儀に従ってもらう。」

私:「あなたの家は治外法権なのか。」
私:「あなたのやり方が間違っていたら損失ではないですか。」

相手:「あなたはアメリカか。」
相手:「あなたの価値観を押し付けないでくれ。」

私:「いや、それはあなたも同じで、あなたの価値観を押し付けないでくれ。」

相手:「ここは我が家なので、我が家の価値観に従ってもらう。」

私:「あなたの家の中だからといって、あなたの価値観に従うべき根拠はないだろう。」

相手:「それなら、あなたの家の中でも、私の価値観が通ずるということになるがいいのか。」
私:「いやいや、価値観を押し付け合いになるから、価値観の押し付けはよくないといっている。」

相手:「じゃぁ、どうすればいいんだ。」

私:「お互いに協定を結ぼうじゃないか。どうすべきか議論しよう。」

結果としてお互いの得になる解は得られないかもしれないが、お互いにが納得できないまでも、お互いの争いをおさめる知恵は生まれるかもしれない。

こういうことは散々繰返されてきていることで、終わりはないのかもしらないが、こういうことを考え、主張していくことが重要だと私は述べている。