進化する魂

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空っぽの有用性

2009-12-29 00:48:24 | 哲学・思想
ショックなことに夜中にがんばって書いたエントリの半分が消えてしまったので書き直しました。

前回のエントリで老子の「タオ(道)」の話を出したのは唐突だったが、これは年の暮れに少し物思いにふけていたのと、↓の記事のある一部分に関連を見出したからだ。

鳩山首相政治資金問題会見、雑感(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-cbe0.html


現在では著作権が山本七平の親族に移譲され「山本七平の日本の歴史」(参照)というタイトルになっているが、当初の著作権者イザヤ・ベンダサンはこう述べていた。漱石の「こころ」の文脈で。

 この点で、この作品に乃木将軍が登場するのは偶然ではない。彼を軍神にしたのは、実は、日本人ではない。むしろ逆輸入であって、少なくとも戦争中と直後は「乃木無能」が定評であった。彼は確かに無能である、というより「即天皇去私の人」であり、この点でまさに真空的人格であった。
 従って彼は、意志、決断、それに基づく指導力などはじめから皆無なのが当然であり、ただその真空的な人格が周囲に異常なエネルギーを巻き起させただけである。そして、それが発揮する --- というより実際には「させる」だが --- 一種独自の力に、逆に超人乃至は超人的偉力をもつ指揮官と錯覚したのは、日本人よりも外国人であった。彼らには「去私の人」のもつ真空が発生させるエネルギー、それは理解できないが故に、かえって不思議な魅力になっていき、自分もそれに巻き込まれて、正当な評価を下しえなくなってしまうのである。
 実はこれが「天皇制」のもつエネルギーである。中心に、欲望の無力状態、人間関係・社会関係における無菌人間を設定し、一種の真空状態を作り出す。これを「去私の人」と言いうるなら、そういって良い。本人は真空であるから、一切の意向はない。いや、たとえあったとしても、ないと設定される。従って意志決定も決断もしない。それが徹底すればするほど、それはますます真空状態を高め、それが周囲に異常なエネルギーを起こして台風を発生させ、全日本を含み、東アジアを巻き込み、遠く欧米まで巻き込んで、全世界を台風圏内に入れてしまう。しかし「台風の目」は、静穏であり虚であり、真空であって、ここには何もない。たとえ「目」が非常な早さでどこかへ進行しても、それは周囲の渦巻が移動させているのであって、「目」が「目」の意向に従って進路を決定しているのではない。


この極東ブログに出てくる「真空人格のエネルギー」は、老子道徳経の第11章で言わんとしている「空っぽの有用性」のことである。


老子道徳経の第11章

三十輻共一轂   三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。
當其無有車之用  其の無に当たりて、車の用あり。
挺埴以爲器    埴(つち)をうちて以って器を為(つく)る。
當其無有器之用  其の無に当たって、器の用有り。
鑿戸以爲室    戸ゆうを鑿(うが)って以て室を為る。
當其無有室之用  其の無に当たって、室の用有り。
故有之以爲利   故に有の以て利を為すは、
無之以爲用    無の以て用を為せばなり。

[当Blogによる独断と偏見による意訳解釈]
車ってのは車輪の穴に車軸を通すことで動くよね。
穴がなかったら動けなくて車の意味無いよね。
土をこねて器を作ってみても、中がくり抜かれてなかったら使えないよね。
器ってのは中が空だから意味があるんだよ。
戸や窓ってものを形作って部屋を作ってみても、中がつまってたら使えないよね。
部屋ってのは中が空じゃなきゃ意味ないんだよ。
ってことで、我々は普段モノが役に立っていると思うけど、実はその前段で空っぽであることが役に立ってるんだよな~。


慣れていない人にはちょっと難しいかもしれないけれど、我々は普段「何かが役に立つ」を「(有形無形を問わず)構造を持った何かが役に立つ」と無意識的に脳内変換している
役に立つモノは「有」であると考えている。
例えば、我々は普通「家」を役に立つモノだと考えるけど、「家の中身(空っぽの部分)」が役に立つとは考えていない。
役に立っているのは「家」であって「家の中身」ではない。
同様に水を飲むのに「コップは役に立つ」けど「コップの中身が役に立つ」とは考えない
それは、我々が「コップ(有)」を考えるとき、無意識的に「コップの中身(無)」を前提として捉えているからだ
(少ない事例でいきなり結論めいたことを述べるが)
要は、「有」の前段に「無」があって、「無」がなかったら「有」が存在し得ないということを意味している。


これは「無」の中に「有」があるってことなのだ。
いつもの言葉で言えば相対性を用いて「無」から「有」を構築しているということ。
この視点はものすごく強力なもので、万事に適用できる。
少しずつ突き詰めていこうと思う。

これが「空っぽの有用性」とどう絡んでくるかを述べよう。

いきなりサッカーの話をしよう。(適切な例かはわからない)
サッカーというスポーツでの肝要は、空きスペースを創ることにある
戦略高いチームは空きスペースを相手陣地に創り出す戦術に長けている。
相手を誘き寄せて空白地帯を創り、そこにパスを出す。
そこにパスが来ることを予期していたプレイヤーが抜け出してボールを受ける。
そのプレイヤーはスペースにおいて自由を得るのだ。
伝説的で独創的プレーが表現されるのはプレイヤーの自由があればこそである。

続いて、組織の話に移ろう。
例えば「会社」について考える。
「会社」には身体があるわけではない
「会社」という組織は型であって中身はない。
しかし、中身がないから、中にいる人は自由に行動できる。
たいていの「会社」には、中にさらに「役職」という型がある。
会社」の中身が空っぽだと個人の自由裁量が大きすぎるので、普通さらに「役職」という型を創って個人の裁量を限定する
しかし、逆に会社の中身を型だらけにしてしまうと個人の裁量がなくなってしまう
こうすると、もはや自由意志を持つ人は不要になる
単純労働は新興国に移動するか、もしくは機械化されてしまう

型をどう決めたらよいかわからない仕事もある
その場合、やはり自由意志を持つ人と「空きスペース」が必要だ
一般にクリエイティブな仕事をする人に当てはめる型を少なくするのはこのためだ。
芸術家にいたっては型をはめようとしないだろう。

これで感のいい方はもうわかるだろう。
「空っぽの有用性」とは「自由」にある
換言すれば、人間の「自由」を発揮したければ「空っぽ」であることが有用であろう
「自由」を発揮させたくなければ「空っぽ」を創ってはいけない

さて、そろそろ「真空人格のエネルギー」と「空っぽの有用性」を繋げて考えてみよう。
(もう答えてしまっているけれど)

なぜ真空人格の周囲に莫大なエネルギーが生まれるのか
それは「自由」が周囲にもたらされるからだ
「自由」は人類が持つ最も強力な性質だ。
「自由」がなければイノベーションも生まれない。
「自由」がなければ何も変わらないだろう。
(「自由」が何かという究極の問いについての持論はいつか述べたい)
あとはどのような方向性(型)が示されるかだけだ。

ゆえに、「創造性」を最大限発揮したければ「神のごとく沈黙すること」である
その真空の周囲には「自由」がもたらされ、能力の限りを発揮するであろう。
ただ、その発揮される方向が必ずしも望ましいものとは限らないなら、真空加減を調整するしかなかろう。
時としてその調整には「権威」が用いられる
「権威」は型のようで型でないようなものだ。
解釈そのものに自由裁量があるからだ。
非常に便利なツールである。


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