粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

落合恵子女史の嫌原発

2012-07-20 13:40:39 | プロ市民煽動家

この人はいつから、こんなアジ演説をする女闘士になってしまったのだろう。7月16日に代々木公園で行なわれた反原発集会で落合恵子さんの演説には度肝を抜かれた。

*命、暮らしへの重大な犯罪と侵略行為の共犯者になることはできない。

*原発はもとよりオスプレイ、 基地も反対です。全て命を脅かすものだから。

*野田政権に聞きます。あなたがいう国民とき誰を見ているのか。今日ここに来ているのが国民であり市民であります。

*原発推進を独裁を挫折させてやろうではありませんか。

落合恵子さん、かつてラジオの深夜放送のパーソナリティとして、10代の若者たちから熱狂的に支持されて「レモンちゃん」の愛称で親しまれていた。自分も何度か彼女の放送を聞いたことがあるが、優しさと凛々しさを併せ持った憧れのお姉さんのような存在だった。

30歳前に作家として独立して女性や子供をテーマにした創作や評論で広く活躍していく。しかし彼女には元々「進歩的」な信条があったのだろう、週刊金曜日などの左翼雑誌の編集委員に名を連ねている。

だから今回の原発問題にもある程度「反原発」主義になるのは仕方がないと思う。しかし、実際今回の演説でその過激ぶりには驚いた。ある政治家が彼女のことを「反日左翼」と呼んだが、まさに今回のはそれを地でいっている感じだ。

特に「今日ここに来ているのが国民であり市民であります」というのは、反原発派の「奢り」さえ感じてしまう。まるで「平家にあらざれば人にあらず」の現代版だ。人の命を考えているのは、こうしたデモに参加している人で、デモに反対したり無関心でいるのは国民ではない、といわんばかりだ。19日の産経抄でも彼女の発言を問題視している。

実際今回の代々木の集会がそれほど国民の真意を表明したものといえるだろうか。先に官邸前デモからの離脱を宣言した木下黄太氏のサイトをみると、コメント欄に集会に参加した上田一郎さんという人の体験記が紹介されていた。それによると、参加者は年配者が多く明らかに市民団体、組合など特定グループが主体で、「一般参加」の人たちが面食らっている様子が記されている。そして原発反対以外、たとえば「増税反対、基地反対」など反政府的なメッセージも含まれているのを見て違和感を覚えていた。落合さんも「オスプレイも基地も反対」と叫んでいたことと呼応している。それが果たして「国民の声」と単純に定義できる内容のものだろうか。

落合女史の主張はまるで「嫌原発」であり反日左翼そのものに見える。あのデモンちゃん、いや失礼!レモンちゃんは何処へ行ったのだろうか。