一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(受想行識亦復如是3)

2008年09月29日 | Weblog
「受想行識」はまた「流れ」です。

 「流れ」とは、見えているものは同じ形であるようにみえますが、かたち作られた瞬間に壊され、次ぎの瞬間にはまったく新しいものに入れ替わっているということです。だからつかもうとしてももう壊されてしまっているのでつかまえることができないのです。

 「受想行識」は「流れ」であるので、なにか好きなものだけをつかまえようと身構えて緊張状態より、どんな変化にも応じられるように、変化に応じてさっさっと動ける状態が私たちの本来の身心です。頭のなかに固定観念がなくリラックスしていて、力の入ってない状態です。要するに、壊して再構築できる状態です。

 私は前に「日だまりの猫」になりたいと書きましたが、「日だまりの猫」になれるのは猫には好きなものだけをつかまえようと身構えていないことに気がつきました。自分の嫌いなことでも避けて通れないものなら受けて立つぞ、みたいなオーラが猫にはあって、その嫌いなことを受けて立つ自信があるから、どんなときでもリラックスしてることが「日だまりの猫」になれるのだということに気がつきました。。まあ猫にはそんなたいそうなことを自分に言い聞かせてやっているのではなく、体が勝手に動いて自分でも無意識にやっているんでしょうけれども。

 人間は頭がついているので普通にしていたら、やはり嫌なものはどんなことをしてでも避けて通りたいとなるのは当たり前のはなしです。ですから変化に応じて避けて通れないものなら受けて立つぞオーラがあって、かつオーラがありつつ身心に力がはいってない状態をつくりだせるのは「行」しかないわけです。