一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「余力有レバ」 

2008年03月11日 | Weblog
 うちのマンションの隣にキリスト教の教会があります。そこに次のように書かれていました。

 「愛は今日始まります。
  今日誰かが苦しんでいます。
  今日誰かが飢えています。
  私たちの働きは
  今日という日の為にあるのです。」

 キリスト教では、今日愛のために働きなさい、といっていますが、自分が充たされなくて、人のために愛を示せるのか私は疑問です。私と重なって読んだのが青山七恵著「ひとり日和」のなかの次ぎの文です。

 「私は話を盛り上げようとはしなかった。ダンボールから衣類を取り出して、伸ばし、またたたんでいくおばあさんの背中を見て、いたわってやらなければいけないんだろうな、と、苦々しく思う。」(注1)

 自分が充たされてないのに、愛を示せといわれても、重荷です。

 それと対照的に「正法眼蔵 阿羅漢」には次ぎのように書かれています。

「己ガ力量ニ随ッテ受用シ、旧業ヲ消遺シ、宿習ヲ融通ス。或ハ余力有レバ、推シテ以テ人ニ及ボシ、般若ノ縁ヲ結ビ、自己ノ脚跟ヲ錬磨シテ純熟ス。」(注1)

 生まれた境遇、時代、環境、受けた教育、ならった風習、してきた習慣、生きてきた経験、その他すべて偶然的なものの寄せ集めの自分を解体した「本当の自分」になって、その「本当の自分」の力量に応じて自分を享受に活用し、もし余力があればさらにその影響を他人に及ぼし、自分を錬磨して十分な成熟を期するのが阿羅漢である。(注3)

  「正法眼蔵」の上記の文を見る限り、過去の業のない「本当の自分」になるほうが第一で、他人に影響を及ぼすのは、あくまで余力があればといっています。

 私は、「正法眼蔵」にはやさしさがあるように思えます。「余力有レバ」という言葉にとてもやさしさを感じるのです。

注1:青山七恵「ひとり日和」文芸春秋(平成15年3月号)367頁
注2:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 93頁
注3:同上 95~96頁参照