一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「有機体レベル」と「概念レベル」

2007年10月08日 | Weblog
 前回のブログの題材にした著書「生物と無生物のあいだ」では、生命とは動的平衡の流れであって、分子レベルでは瞬間瞬間生滅がおこなわれている、と書かれていました。その著書では物質レベルの瞬間瞬間の生滅が取り上げられていますが、「正法眼蔵」では、われわれの主観も含まれた法レベル(主観とわれわれを取り巻く物質の世界)の瞬間瞬間の生滅が書かれています。
 「正法眼蔵 海印三昧の巻」では、

 「我我起、我我滅なるに不停なり」(注1)

『本当の自分というものが生まれたり、本当の自分というものが消滅したりということは、この法の世界の中で瞬間瞬間におこなわれている。』
 
 それでは瞬間瞬間に起滅する本当の自分とはどういう自分なのかというと、次ぎのように書かれています。

 「相逢スルモ拈出セ不 意ヲ挙シテ便チ有ヲ知ル なり。」(注2)

 『何らかの事物に遭遇しても それを概念的に把えることをせず、それを意識全体で把えた場合にはじめてその存在を認識するといったような状態である。』(注3)

 「手ヲ背ニシテ枕子を模スルの夜間なり。」(注4)

 手を後に廻してはずれた枕を手さぐりで探す本能的な無意識の動作。(注5)
 
 本当の自分は、思慮分別して行動する自分ではなく、坐禅している時にからだ全体で感じる意識(浮かんでくる思いや考えも含めて)から行動する自分だと書いてあります。本当の自分は概念レベルではなく有機体レベルで生きているということになります。
 私は、安心を概念で得ようとして、安心材料の概念をいろいろ揃えようとしていましたが、本当の安心は得られませんでした。只管打坐の坐禅を通して有機体レベルの落ち着き感がはじめて持てた気がします。概念の安心材料をそろえて「守り」を固くすることではなく、有機体レベルの直観が、概念にしがみつくことで曇ってしまわないように、しがみつく概念を「壊して」いくことが「正法眼蔵」的ではないでしょうか。
 
注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 8頁
注2:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 12頁
注3:同上 16頁
注4:同上 12頁
注5:同上 13~14頁