(梅の花 何を言おうと してるかな)
福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』のなかに次のような言葉があります。
生命を生命たらしめるバイタルなもの、それは「生気」である。生物はミクロな部分から成り立っている。そこにプラスαとしての「生気」が加わって初めて生命現象が成立する。名づけてバイタリズム。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもたらす効果にこそある。
上記の解釈からすると、梅の花を例にとると、梅の花そのものに焦点をあてるのではなく、梅の花が私に与えた影響こそに焦点をあてるということではないでしょうか。
梅の花に焦点をあてるのと、梅の花が私に与えた影響に焦点をあてるのではどう違うのでしょうか。
目の前にある梅の花は一つですが、その梅の花が与える影響はその人その人によって異なります。梅の花を見て、梅の花に関する記憶を思い出している人もいるでしょう。ある人は、この梅の花は邪魔だから切った方がいいと思っている人もいるでしょう。昔の禅の坊さんは梅の花をみて悟ったというのを聞いたことがあります。
また、同じ人でも、時間や状況によって梅の花から与えられる影響は違います。
上記の私に与えた影響こそが「生気」と呼ばれるほどの私を私ならしめるものだとする考え方からすれば、次のようにも考えられるでしょう。
ある友だちがいます。もちろん他人だから価値観は違います。価値観が違うからバッサリ付き合わないようにするか、価値観は違くても、なんか彼女・彼からはいいオーラが伝わってくるから、付き合ってみようとするのでは、私の「生気」が変わります。私を私ならしめるものが変わる。要するに私が変わるということでしょうね。
友だちと付き合おうと付き合わなくても、私は私だと思っていましたが、この言葉に触れてから、私は他からの影響力で生かされているんではないかと思うようになりました。
2年弱前に愛犬を亡くしました。股関節がはずれて全く動けなくなったワンコの介護をしました。いやいややっていたのですが、でもワンコの介護をする前とした後では、私はまったく変わりました。ワンコからの影響が私を変えたのです。
これからも、何かを見たり考えたりするとき、そのものに焦点をあてるのではなく、そのものから受ける影響力に焦点をあてていこうと思います。