一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(向きあうもの)

2018年03月25日 | Weblog
 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 そこで自分が一つに束ねられるのはどういうことなんだろうかとふと思いました。そのことを考えていたら、そのことのヒントになる言葉がある本のなかに書かれていました。

「『自分が自分が』と自分自身のことをまるで確固としたもののように言う人がいますがそんな確固とした自分の核なんてあるんでしょうか。少なくとも世間でいう『自分』などというものは、単なるキャラクーであり、役どころのようなもので、そのようなものは関係性の変化でいちころに変わってしまうものです。」と。

 確かに私のことを考えてみても、自分のことを受け止めてくれる人には、素直な自分がだせるし、自分のことが全然わかってないな、と思う人には、自分を閉じている自分がいます。

 上記に書いたように、関係性の変化で自分はいちころに変わるということが、自分が一つに束ねられるにはこうすればいいのかのヒントになりました。自分を一つに束ねるにはすべてが束ねられているものと向き合えばいいのです。

 では、向き合えばいい一つに束ねられているものはいったいなんなんだろう?それを考えていたら机の上に貼ってある一枚に写真が思い浮かびました。雪がふっている景色を背景に坐禅している修行僧の写真です。修行僧と雪景色が一体になっています。ピーンとはりつめてすべてが統一されている空気感が伝わってきます。修行僧が雪景色に溶け込んでいます。

 向き合えばいい一つに束ねられているものというのは、雪景色でなくても何気に普段目の前にある空間です。沈黙で向き合えば、私も一つに束ねられるような気がします。