一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(コア)

2018年03月01日 | Weblog
 ダイニングテーブルのうえにカーネーションが挿してありました。そのカーネーションをみていたら、花びらを束ねている一点に目がとまりました。その一点を見ながらなにげにいろいろ思い巡らせていたら、これはコア・核心といえないこともないなと思いました。

 コアというのはどんなことを言うのかと考えてみると、たとえば私が毎日の食材を買いに行った場合何のコアもないと、これも安いからこれも食べたいから買おうと買っていきます。でも何らかコアがあるとこれこれの基準のもとに買い物をして、一ヶ月いくらいくらで食費を納めようとすることです。コアがないと何基準に買い物をしたらいいのかわからなくてパシッとしません。

 そういう点に関連して、龍樹の『中論』の註釈書を読んでいて、私はこれがコアというのに今まで気がつかなかったという点がありました。それは以下の言葉です。「もし、諸行が常だとすると、作がないから輪廻は存在しない、もし、無常だとすると、過去は刹那消滅で滅しているから輪廻は存在しない。」という言葉です。今までは、これらの言葉を単なる詭弁とも言えなくもないよな,位で読んでいましたが、これはひょっとして私にとっての仏教のコアではないかと私のなかに衝撃が走りました。

 刹那消滅というと、生物は、この酸素のある空気の中で酸化されるのを生き延びるために、刹那刹那に酸化される前に自らを壊してまた再構築をするという手段をとって生き延びてきました。だから私たちの背後にはこの作用が隠されているのです。私は、これこそが仏教の核心ではないかと思ったのです。私たちは、背後のこの作用を無視しているから何かパシッとしないのではないかと。

例えばシンクロナイズドスイミングで水面上では平静を装って笑顔でいるけれども、水面下では手足をバタバタさせてバランスをとっているようなものです。それなのに、私たちは水面下はまったく無視して水面上しかないと思って生活しているのです。この状態を見てみるに水面下がコアで水面上はその上に成り立っていることになります。だから、水面下を無視すれば、それとのバランスが崩れてだんだ水に沈んでいきます。

 私は、ミニマリストになりたいなんて言いながらなにか目の前においしそうな情報をつきつけられたりするとグラグラとしていました。表面的なもの惑わされているのです。これは私のコアがはっきりしなかったからだと気がつきました。生花と造花では表面上まったく同じに見えても違います。背後に刹那消滅の作用があるかないかの違いです。その差というのは、目ではっきり見ることができないからとらえにくいけれども、あきらかに違います。これからは、刹那刹那に壊して再構築している状態をコアにしてミニマリストをねらってみたいと思います。