一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

一味

2010年06月08日 | Weblog
 昨日の夕方誤報で火災警報がなったとき、一緒に逃げなくては大変とうちの猫のチョモを呼んでも押し入れに隠れて出てこなかった。

 そのことで今朝チョモに話しかけていた。「お母ちゃんがチョモと呼んだら出てこなくちゃだめでしょ。出てこなけりゃ焼け死んじゃうでしょ。ねーチョモ。ねー聞いてるの。」

 なんぼチョモチョモと言っても、チョモはこっちを見向きもしない。

 猫の表情を見てると、まあこいつの言っていることは、振り向くほどのことを言ってないようだけど、俺に向かってごちょごちょ言っているのは俺に感心をもっているみたいで心地いいから、この日だまりのなかでお母ちゃんの気持ちのなかで泳いで気持ちいいなあ、みたいな感じです。

 私がなにを言っているかはわからないけれども、チョモは私の気持ちの流れのなかで泳いでいるようです。

 私と猫が溶け合っている。猫が言葉にこだわらないゆえに、今流れているものだけを存在するものとして自分の対象としていることによってだしている味と、それを心地良いと感応する私の味とが一体となってお日様のひかりのなかで溶け合っています。

 私の言っていることを猫はまったく無視しているのに、全然腹がたたないどころか、逆に言葉を無視してくれていることに心地よさまで感じてしまうという、猫のだす味に最近ずっと考えさせられ続けています。

 猫は言葉を無視しているけれども、私の流れているものはきちんととらえています。私が猫の心地良い表情やしぐさをみて、いとおしいという私のこころが揺れたり流れたりするのははきちんととらえます。

 私は猫の流れるこころのとらえ方を考えていたら、いままでの自分の人間関係に疑問を持ち始めてしまいました。これまでは価値観が近いからこの人とつきあいたいと思ってるのかと思ってました。でも私の求めていたものは流れるものの側にいたいだけだったんだと気がつき始めました。

 こころが素直に流れる人。流れるものをみて素直に気持ちが流れる人。私が仏教をやって求めていたものとは、私もその流れに溶け合って一緒に流れたいことだけなんだということに気がつき始めました。