我われは、精神と物質という二つの存在を設定し、それぞれを実体視する。そして自己が感覚し知覚する外界の事象、たとえば山、川、海、雷雨、さらには自己の肉体、などは自己の心(精神)をはなれて外界に厳として実在すると考える。山があるからこそ山登りをするのであり、川があるからこそ橋をかけるのであり、自己が肉体があるからこそ死ぬまで同一の個人でありうるのだ、と考える。
ところが、我われからすればなんの疑問もないと思われるこのような常識に敢然と対決し、その誤りであることを飽くことなく論証しつづけた一群の人々が、遠く東洋の一隅インドにおいて、古くも紀元後三・四世紀ごろに出現したのである。(註)
私は、200年・300年代にすでに、そんなことを考え続けていた人々がいたということにロマンを感じてしまいます。本当に存在するものとはなにかを追い求めて絞っていったものには、美しさがあります。その美しさが私を惹きつけてやまないのです。
目の前に赤いバラがあるとします。彼らは赤いバラを幻だとするのです。
私たちはバラの花は自分の心(精神)をはなれて外界に厳として実在すると考えます。そしてそのバラの花を私が見ていると考えます。
でもその主体・客体の二元的なとらえ方をすると、私たちは酸化されてしまうのです。そのとらえ方は「流れ」ではなく、「常」のとらえ方です。
私たちにとって酸素は猛毒で、一瞬でもそこにとどまっていれば酸化されてしまいます。その酸化の世界で生き残るためには酸化されるよりも前に壊して新しい細胞に入れ替えてしまうという、流れのなかで生き残る方法をみつけた生きものが生き残りました。
逆に彼らは「流れ」のなかでしか生き残れません。だから真実は「流れ」のなかにしかないのです。
この「流れ」の視点からみれば、なんの疑問のないと思われるこのような二元的なとらえ方の常識に敢然と対決した人々がいたというのも、わからなくもありません。
では、「流れ」のなかでバラの花をとらえるとどうなるのか。バラの花を見て「流れ」ているものは何か。
それは私たちのなかで「流れ」るなにかです。
そのなにかとは、バラを六感(眼・耳・鼻・舌・身・意)でとらえて起こる、神経インパルスの発生、筋肉の運動等の様々の私たちの身体のなかでおこる活動です。
バラの花を見てたらおだやかな、しあわせな気分になって、落ち着いた気分になった、やる気がでてきた、だれかを憎んでいたのがどうでもよくなったとか、バラにまつわる過去の記憶がよみがえってきたとかが、私的には神経インパルスの発生によるものかと考えてみました。
またバラの花の香りで顔が微笑んだ、バラのほうに近づいていったとか、身体の緊張感がとれたとかは、筋肉の運動によるものかと考えてみました。。
バラの花を「流れ」でとらえたとき、二元的なとらえ方と決定的に違うのは、「流れ」にはオンとオフがあるということです。
DNAからRNAがコピーされればその部分の遺伝情報に基づいて「流れ」がオンになって働きだし、コピーされなくなれば、「流れ」がオフになることです。今やらなければ命にかかわるようなものが目の前にあるときには、バラの花をみてもに遺伝子はオンにならないからバラに対してなんの反応もありません。
だからバラの花を見ても、「流れ」がオンであれば、バラの花は存在するけれども、「流れ」がオフであれば、バラの花は存在しないのです。
猫の目線が私は大好きです。あれもこれもと中途半端な目線はしません。私をみるときは、100%私をみていますし、なにか獲物をみるときも、100%獲物に焦点を合わせます。これは二元的なとらえ方をしてないで、自分のなかの「流れ」にだけ従っている美しさだと思います。
註:横山紘一「唯識思想入門」レグルス文庫 参照
ところが、我われからすればなんの疑問もないと思われるこのような常識に敢然と対決し、その誤りであることを飽くことなく論証しつづけた一群の人々が、遠く東洋の一隅インドにおいて、古くも紀元後三・四世紀ごろに出現したのである。(註)
私は、200年・300年代にすでに、そんなことを考え続けていた人々がいたということにロマンを感じてしまいます。本当に存在するものとはなにかを追い求めて絞っていったものには、美しさがあります。その美しさが私を惹きつけてやまないのです。
目の前に赤いバラがあるとします。彼らは赤いバラを幻だとするのです。
私たちはバラの花は自分の心(精神)をはなれて外界に厳として実在すると考えます。そしてそのバラの花を私が見ていると考えます。
でもその主体・客体の二元的なとらえ方をすると、私たちは酸化されてしまうのです。そのとらえ方は「流れ」ではなく、「常」のとらえ方です。
私たちにとって酸素は猛毒で、一瞬でもそこにとどまっていれば酸化されてしまいます。その酸化の世界で生き残るためには酸化されるよりも前に壊して新しい細胞に入れ替えてしまうという、流れのなかで生き残る方法をみつけた生きものが生き残りました。
逆に彼らは「流れ」のなかでしか生き残れません。だから真実は「流れ」のなかにしかないのです。
この「流れ」の視点からみれば、なんの疑問のないと思われるこのような二元的なとらえ方の常識に敢然と対決した人々がいたというのも、わからなくもありません。
では、「流れ」のなかでバラの花をとらえるとどうなるのか。バラの花を見て「流れ」ているものは何か。
それは私たちのなかで「流れ」るなにかです。
そのなにかとは、バラを六感(眼・耳・鼻・舌・身・意)でとらえて起こる、神経インパルスの発生、筋肉の運動等の様々の私たちの身体のなかでおこる活動です。
バラの花を見てたらおだやかな、しあわせな気分になって、落ち着いた気分になった、やる気がでてきた、だれかを憎んでいたのがどうでもよくなったとか、バラにまつわる過去の記憶がよみがえってきたとかが、私的には神経インパルスの発生によるものかと考えてみました。
またバラの花の香りで顔が微笑んだ、バラのほうに近づいていったとか、身体の緊張感がとれたとかは、筋肉の運動によるものかと考えてみました。。
バラの花を「流れ」でとらえたとき、二元的なとらえ方と決定的に違うのは、「流れ」にはオンとオフがあるということです。
DNAからRNAがコピーされればその部分の遺伝情報に基づいて「流れ」がオンになって働きだし、コピーされなくなれば、「流れ」がオフになることです。今やらなければ命にかかわるようなものが目の前にあるときには、バラの花をみてもに遺伝子はオンにならないからバラに対してなんの反応もありません。
だからバラの花を見ても、「流れ」がオンであれば、バラの花は存在するけれども、「流れ」がオフであれば、バラの花は存在しないのです。
猫の目線が私は大好きです。あれもこれもと中途半端な目線はしません。私をみるときは、100%私をみていますし、なにか獲物をみるときも、100%獲物に焦点を合わせます。これは二元的なとらえ方をしてないで、自分のなかの「流れ」にだけ従っている美しさだと思います。
註:横山紘一「唯識思想入門」レグルス文庫 参照