一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

猫は後片づけをしない(欲望)

2009年02月15日 | Weblog
 後片付けをしなくてもいい日常生活を送るために毎日何をしたいのかと考えていたら、後片付けをしない欲望とは何かと疑問がわいてきました。

 大体暇な時間があると、おいしいものを食べにいこうとか、映画を見にいこうとかします。でも普通の感覚的な刺激を満たす欲望や、頭で得る欲望というのはどこで切ったらいいかわかりません。何をやったとしても後をひきます。だから自制のちからでどこかで欲望をおさえるわけですが、おさえるのにはエネルギーが必要です。エネルギーが消耗されれば後の行動が十全の働きができなくなります。

 仏教を勉強していくなかでエネルギーをすり減らさないポイントが人間にはあるのに気がつきました。それは宇宙全体をとらえているとき、すなわち‘空’をとらえているときです。

 宇宙全体をとらえているときの満足感をうたった良寛さんのこの歌が私は大好きです。  
  静夜虚窓下 打坐擁衲衣
  臍与鼻孔対     耳当肩頭垂
  窓白月初出 雨歇滴猶滋
  可怜此時意 寥々只自知

    静かな夜は 小ざっぱりした部屋の
    まどの辺りで坐を組み 
    衣の袖をたくしあげ せすじを真直伸ばしますと
    臍と鼻の孔の線が一本になり
    耳は肩のあたり垂れる姿勢となります
    窓の辺りが白々と明るさを増し
    月の出となりました
    折から雨もやみ
    雨だれの音だけが軒端を賑わせております
    この時の気持は何と申しましょうか
    実に寥々たるものであります
    この寥々たる寂しさの底から
    ふきこぼれる真実を
    自ら採り自得することが出来る
    この自知の豊かさは又格別であります
    坐禅の醍醐味とも言うべきでありましょうか (注)                                               
 寂しいなあと思って雨の音を聞いているだけでは頭の世界を満足させるものではないし、窓の辺りが白々と明るくなってきたなあ、とか 雨だれの音が聞こえるなあ、という位では感覚器官の刺激を満足させるものではありません。寥々たる寂しさの底から「ふきこぼれる真実」をとらえた醍醐味といっているのは、宇宙全体をとらえた、すなわち‘空’をとらえたときに感じる自然の一部としての本来の人間の感覚を満足させたからだと思います。

 後片づけをしない生活をねらうためには、欲望を‘空’できっていくことが必要のようです。

注:森山隆平「良寛絶句」大陸書房 278頁 ~ 279頁