今勉強している竜樹尊者の「中論」によると思考は実在ではない、また眼に見えたもの、耳に聞こえたものも実在ではない、眼の前の世界をとらえるのは直観が実在であるというのです。
「われわれは、頭の中で何かを考えて、頭の中で考えたことそのものが現実の事態として、この世の中に本当に実在するものだと考え勝ちであるけれども、それは正しくない。そうかと云って、眼に見えたもの。耳に聞こえたものを物質と呼び、それがあたかも実在するかのように考えることも正しくない。われわれが頭の中で考えている内容は、単に脳細胞のなかにおける解釈であり、われわれの目に見え耳に聞こえて来るものも、単にわれわれの感覚器官の興奮から生まれた刺激でしかない。」(注)
頭の中で考えたことが実在ではないというのは猫や木を見ると何となくわかるような気がします。猫をみていると自分からこうしようとかああしようとか思って行動していることはありません。木もそうです。自然界のものはすべてそうだと思います。猫はじーっと眼の前の状況を見ていてお日様の光があっちのほうに移動したからそちらの方に移るとか飼い主がソファから立ったから餌をねだりに行こうとか目の前の状況に従って行動します。木も自分でこうしようああしようはなく、すべて回りの状況にあわせて枝を広げだり水分の量を調節したりします。勝手に自分の気分で葉をあっちこっちに広げたりはしないでしょう。人間だけが眼の前の状況を無視して頭で勝手にああしたいこうしたいと行動しています。
実在しない頭で考えた行動というと、これはやって楽しいこと、これはやりたくないことと自分の好き嫌いで行動することが思い浮かびます。孤独や寂しさや仕事や義務や病気や介護や年をとること醜いことは嫌いで、好きな道楽をすること楽しい刺激を求めること健康でみんなとわいわい楽しいこと美しいことカワイイものは好きなこととなります。私は好き嫌いで何かやったあとなにか後味の悪さを感じることが多いのです。それに比べて眼の前の状況に従ってやりたいことがあっても今やるべきことを優先してすると意外と後味はさわやかです。好き嫌いの先にあるのは無味乾燥でつまらない世界ではなくもっと安心感のある深い世界なのではないでしょうか。
‘直観’というのは、眼の前の世界を人工的な好き嫌いというところでとまるのではなく、その先の好き嫌いをはずした眼の前のありのままの世界からうまれるものだと思います。仏教でいう‘直観’は、自分が眼の前の世界と完全に一体となったときに感じられる安心感、究極の本当の自分としての感じ、生まれてくるまえのふるさとに帰った感じです。
注:竜樹尊者 著 愚道和夫 訳「中論」金沢文庫 8頁
「われわれは、頭の中で何かを考えて、頭の中で考えたことそのものが現実の事態として、この世の中に本当に実在するものだと考え勝ちであるけれども、それは正しくない。そうかと云って、眼に見えたもの。耳に聞こえたものを物質と呼び、それがあたかも実在するかのように考えることも正しくない。われわれが頭の中で考えている内容は、単に脳細胞のなかにおける解釈であり、われわれの目に見え耳に聞こえて来るものも、単にわれわれの感覚器官の興奮から生まれた刺激でしかない。」(注)
頭の中で考えたことが実在ではないというのは猫や木を見ると何となくわかるような気がします。猫をみていると自分からこうしようとかああしようとか思って行動していることはありません。木もそうです。自然界のものはすべてそうだと思います。猫はじーっと眼の前の状況を見ていてお日様の光があっちのほうに移動したからそちらの方に移るとか飼い主がソファから立ったから餌をねだりに行こうとか目の前の状況に従って行動します。木も自分でこうしようああしようはなく、すべて回りの状況にあわせて枝を広げだり水分の量を調節したりします。勝手に自分の気分で葉をあっちこっちに広げたりはしないでしょう。人間だけが眼の前の状況を無視して頭で勝手にああしたいこうしたいと行動しています。
実在しない頭で考えた行動というと、これはやって楽しいこと、これはやりたくないことと自分の好き嫌いで行動することが思い浮かびます。孤独や寂しさや仕事や義務や病気や介護や年をとること醜いことは嫌いで、好きな道楽をすること楽しい刺激を求めること健康でみんなとわいわい楽しいこと美しいことカワイイものは好きなこととなります。私は好き嫌いで何かやったあとなにか後味の悪さを感じることが多いのです。それに比べて眼の前の状況に従ってやりたいことがあっても今やるべきことを優先してすると意外と後味はさわやかです。好き嫌いの先にあるのは無味乾燥でつまらない世界ではなくもっと安心感のある深い世界なのではないでしょうか。
‘直観’というのは、眼の前の世界を人工的な好き嫌いというところでとまるのではなく、その先の好き嫌いをはずした眼の前のありのままの世界からうまれるものだと思います。仏教でいう‘直観’は、自分が眼の前の世界と完全に一体となったときに感じられる安心感、究極の本当の自分としての感じ、生まれてくるまえのふるさとに帰った感じです。
注:竜樹尊者 著 愚道和夫 訳「中論」金沢文庫 8頁