一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「ふきこぼれる真実」

2008年05月22日 | Weblog
 ここ2週間位ずーっと‘直観’について考えています。どうも私がなんとなく‘直観’ととらえていたものが違っていたようなのです。

 私は‘直観’は、見たり聞いたりの感覚器官の刺激や情報や自分でも気がつかない身心の潜在的な要素が、坐禅によって高性能のコンピューターのようにバランスよくアレンジしてだされた判断のように解釈していました。

 でも最近つぎのように‘直観’について書かれているのを見ました。「思考作用が働いたり感覚器官の刺激を受け入れたりしている段階では、‘直観’は働く余地がない。」そうすると今までの私のとらえ方の思考作用や感覚器官の刺激のアレンジの‘直観’は‘直観’ではないということになります。

 目で見える世界以外の‘直観’での世界のとらえ方て何だろうと考えていたとき、良寛さんの次の歌が私に,‘直観’での世界のとらえ方は思考作用や感覚器官の刺激でとらえた世界とは明らかに違うのではないかというヒントを与えてくれました。

  静夜虚窓下 打坐擁衲衣
  臍与鼻孔対     耳当肩頭垂
  窓白月初出 雨歇滴猶滋
  可怜此時意 寥々只自知

    静かな夜は 小ざっぱりした部屋の
    まどの辺りで坐を組み 
    衣の袖をたくしあげ せすじを真直伸ばしますと
    臍と鼻の孔の線が一本になり
    耳は肩のあたり垂れる姿勢となります
    窓の辺りが白々と明るさを増し
    月の出となりました
    折から雨もやみ
    雨だれの音だけが軒端を賑わせております
    この時の気持は何と申しましょうか
    実に寥々たるものであります
    この寥々たる寂しさの底から
    ふきこぼれる真実を
    自ら採り自得することが出来る
    この自知の豊かさは又格別であります
    坐禅の醍醐味とも言うべきでありましょうか (注)                                               思考作用で寂しいなあと思ったり、まどの辺りが白々と明るくなってきたなあとか雨だれの音が聞こえるなあと感覚器官の刺激でとらえる世界は誰でもとらえられる世界です。でも寥々たる寂しさの底から「ふきこぼれる真実」をとらえられる人はそんなにいないでしょう。この「ふきこぼれる真実」こそが‘直観’でしかとらえられない世界だと思います。

注:森山隆平「良寛絶句」大陸書房 278頁 ~ 279頁