一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

一番の贅沢

2008年05月08日 | Weblog
 連休の間温泉にいく人や海外旅行にいく人もたくさんいるようです。テレビで温泉にいった人や海外旅行にいった人たちのインタビューを見ると、行きたいなと少しは思いますが昔ほど行きたいとは思いません。

 私にとって一番の贅沢は、目の前のことやものを見ている余裕があり、それを見ていることによってやりたくなったことがやれる自由があることです。目の前に汚れた茶碗があっても、今仕事にいかなければならなければ洗わないで放っておかなくてはなりません。花が枯れそうになっていても、水をやらないででかけなければなりません。こどもが話をしたがっていても、話を聞いてあげられません。だから状況が許す限り安易に仕事はしたくありません。 

 前は何が一番大事か自分でもわからず、時間に縛られる仕事をしたり資格をとる学校に通ったりしました。でも「正法眼蔵」を勉強して最近はっきり何が一番大事かわかりました。一番大事なものは、お金よりもそこそこの快楽よりも、目の前のことやものを見ている余裕があり、それを見ていることによってやりたくなったことができる自由があることです。一番最初のブログのなかで書いた武満徹氏の言葉「作曲とは、作るのではなく、聞こえて来る音を取り出すのだ。命や自然を聴くことが大事である。」がよくそのことをあらわしてくれていると思います。命や自然から聞こえてくるかすかな音をとりだすためには、余裕と自由がないととりだせません。

 仏教ではすべてのものが、他のすべてのものと関係しあいながら一つの全体世界を形作っていて、世界全体の全存在が結びつきあっていて、宇宙全体が相補性でなりたっているととらえられています。だから人間も外界の変化に応じて全体世界のなかの自分のありかたが決まります。目の前に展開する現実を見ていることによって何かやりたくなってやっていくことです。人間は生まれたときは、外界の変化に応じて自然に自らを変えられるという柔軟な可変性のメカニズムをもっているとされています。それが、人工的なものでそのメカニズムが狂ってしまっているようです。

 仕事をしているときに、目についた時目についたことができたらいいなあ、とふと思いましたが、仏教を勉強してみたら、そんなふとで見過ごしてしまったことが、一番大事なことだということにようやく気づきました。