明日(9/9)の分です。
夏になると、必ず、渇水であたふたせねばならん四国の早明浦ダムが、この秋雨前線のお陰で満杯になったとある。
良かったね。でも、改善策は無いのかな? 毎年繰り返される弱点なんだけどね?
悪しき習慣を断ち切りがたいのと似てるね。また、何とかなるだろうの運任せかな?
映画は、最初観たときよりも二度目に観たときのほうが、いいなあって思える時があるね。
「コールド・マウンテン」っていう南北戦争を背景にした恋愛物語なんだけど、昨日、もう一度、観て、そう思ったの。
南軍の兵士としてノースカロライナ州からヴァージニア州に送られたインマン(ジュード・ロウ)は、そこで激しい戦いの只中に置かれることになる。
友人を失い、自分も負傷したインマンは、出兵前の僅かな時間しか共に過ごすことが出来なかった最愛の女性エイダ(ニコール・キッドマン)に
再び合うため脱走し、遥かなる故郷のコールドマウンテンに徒歩で帰る旅に出る。純愛もんだね。
『 コールド・マウンテン 』 2003年度作品 アメリカ映画
いろんな人が、この映画の感想を述べているね。人それぞれに捉え方が違う。
多くを見て云う訳じゃないけど、女性が純愛ものを軽んじる声が目立つね。世も末だね。
男が男を忘れた時代じゃないね。今は、女が女を忘れた時代だね。風紀を乱すのは、男より女だってことを知らないね。
今の女は、人間の権利を主張して己が女を安売りするんだね。男は、流れに沿って男を生きているだけだよ。
いつの時代も、その時代の色は女が染めるんだよ。答えは、婆になってから解ることで気の毒としか云いようがない。
女の誇りは、一生の先にあるんだね。男よりも奥深いことを知るよしもない。女は地に咲く花、男はあちらこちらと飛び行く虫が如きだね。
ジュード・ロウ
ナタリー・ポートマン
レニー・ゼルウインガーが、達者な芸を見せている。当時は、まだ、若かったナタリー・ポートマンが、夫を戦争で失って
赤子と二人で片田舎で寂しく暮らす女性(サラ)を演じてる。旅の途中のインマンが腹を空かせて訪れる。
インマンの人柄から警戒心を解いたサラは、別棟を一夜の宿に貸す。
アメリカ大陸の中に、ただ独りってな感じなんだろうね。不安と人恋しさが同居して緊張が解けると寄り添いたくなる。
サラは、長い独り寝に我慢が利かずインマンを自分のベッドに誘う。
インマンは、自分には、好きな女性がいるって云って、泣くサラを腕の中に抱き寄せ添い寝してあげるんだね。
ニコール・キッドマンって、そんなに綺麗かね? 「おまえの好みじゃないんだろうけど綺麗なんだよ」 ああ、そう。
ナタリー・ポートマンって、そんなに綺麗かね? 「おまえの好みじゃないんだろうけど綺麗なんだよ」 ああ、そう。
「レニー・ゼルウインガーのことは、云わないのか?」 この人は、芸がしっかりしてるね。芸で、どのようにでも見せるね。
男勝りのルビー レニー・ゼルウインガー
冒頭のピーターズバーグの包囲戦
同郷の若者等と勇んで南軍兵士になったインマンは、憧れと現実の落差を思い知る。
エイダから寄せられる手紙に勇気付けられ、エイダが映る銅版の写真を胸に地獄の戦場の只中に居た。
恋愛映画なんだろうけど、背景となる南北戦争のピーターズバーグの戦いを金を惜しまず注ぎこんで描いているね。
冒頭のピーターズバーグの包囲戦
出征するインマンとエイダの別れ
悪辣な義勇兵を倒すインマン
淡々と描いてるんだけど、其の分、インマンの帰郷の執念やインマンを待って苦境を耐え抜くエイダの気迫のさまが希薄だね。
愛し合う二人が、ようやく出会って気迫のベッドシーンで子供ができるんだね。「なんやねん、ちょっと表現がおかしいぞ」
こんなシーンは余計だよ。初めて抱き合ったって漂わせばいいんだよ。裸のお尻に頬寄せてなんて、映さなくても、皆、やること一緒だよ。
銃後で脱走兵狩りをする義勇兵が、エイダとルビーに脱走兵を匿ったって云って追い詰めるラスト、駆けつけたインマンがバタバタと撃ち倒す。
最後の一人を追いかけたインマンが、その男と撃ち合う。義勇兵は、走る馬上でのけぞり倒れる。
銃を構えたまま、其れを目で追うインマン。終わったねって思ったんだけど、急に咳き込んだインマンの口から鮮血が噴き出す。
今は、少女に成長したインマンの子とエイダが、牧場の羊の子の世話をやいている。晴れ渡った緑なす牧場の我が家の前庭では、
友人のルビー、其の旦那と子、ルビーの父親、近所の未亡人らが、テーブルに料理を拡げて食事している光景で映画は終わる。
ハッピーエンドじゃなかったの? 何百キロを歩いて帰って来て、初夜で種付けして終わりかえ? 酷い話やねえ。
「俺が、死ぬ意味合いがあんのか? 実話じゃあるまいし、べつに、生きてても良かったんじゃないの?」って聞こえてきそう。
今のように、わんじゃか人が溢れている時代じゃないし、地方ともなれば、殊更、寂しい環境だからね。
男と女の運命の巡りあいも奇跡に近いものがあるだろうね。思い入れもひとしおだろうと思うよ。
人が時代を創るのか、時代が人を創るのか、いずれにせよ、想いを貫くってことの真実は、なによりも重いってことに変わりはない。
昔、見慣れた西部劇の背景と、この映画の背景が醸す風土に、なんか違和感をもったんだけど、オレの感性は狂ってないわ。
ロケ地がアメリカじゃないんだね。ヨーロッパで撮影したらしい。
なんで、馬鹿っぴろい自国で撮らないの? 赤茶けた荒野ばかりじゃないだろ? 緑なす草原や雪に埋もる山肌もあるじゃないか。無駄な費用だよ。
時折、自分の感性に酔ったような監督が、こういう意味のない馬鹿げた無駄遣いやって採算とれなくするんだよ。
なんで、西部劇がヨーロッパなんだよ。そういえば、昔、あったね。マカロニ・ウエスタン、イタリアの西部劇。
本場アメリカの西部劇が、以降、こいつらのせいで気が狂ったみたいにおかしくなっちゃった。情けないね。
人を追い詰めて甚振(いたぶ)って、取り巻く悪者どもが、意味無くゲラゲラ馬鹿笑いばかりで一本調子。
対決の緊張感がやたらと長くて眠たくなるよ。観れたのは、初っ端のクリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」だけ。
あとは、クソ駄作のオンパレードじゃないか。考えたら、クリント・イーストウッドのためのマカロニ・ウエスタンだったんだね。
『ダーティ・ハリー』
その人が持つ強運の為せる業だね。アメリカで干されて、イタリアに渡って芽が吹き、再び、自国で大輪の花を咲かせたね。
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