カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-410 『紫陽花(あじさい)』

2012年05月26日 | 日記






日が長くなって午後7時でも薄明かりが残ってる。

そろそろ春から梅雨のシーズンに移り変わっていくんだろうね。アジサイの葉っぱがどんどん大きく育って花の実が目立ってきたよ。

アジサイの花ってのは、小さな花の集合体なんだね。花をじっと見るなんてなかったな。もの言うこともなく静かに生きて居るんだね。






「おまえの姿は雨の日にじつによく似合ってるよ」 シトシト降る雨に濡れて艶やかに咲く日は、もうすぐだね。





















自分が生きていくことに忙しい。傍(はた)は見えてはいるけど気にも留めぬことのなんと多いことだろう。

遠くへ遠くへ足を延ばすことに躍起になるけど、足元にあるものに気づかないことって案外多いんだろうね。

「やる気」と云うか「勢い」って、云うか、そんなものをくれてるんじゃないかな?って思うときがままある。






言葉じゃないんだね、顔を見るだけで、傍らに存在するだけで「その日を前向きに過ごせる」ような気がするんだね。なんだろうかね? 

「影響されるのかな?」 「相性かな?」と、云っても、自分だけが、そういういいとこ取りしてるのかも知れないからな。

言葉で表せば「見えない前が見えるような気がするよ」 彼女は、わたしにとって、そんな娘(こ)だね。























昔から、人を探し求めない。探し求めても切が無い。然程、欲しもしない。探し求めなくても必然的に遭遇する人ってのがある。

自分に宛がわれた人生の道に関わる人が居る。其の、何かしらの縁ある人に真っ正直に向き合う。

それだけでも相当の数に上る。自分の時間も大事にしたい。意図して増やせば時間も労力も費やされて無理が生じる。






人それぞれに受け入れる容量が違うんだろうかね? わたしの場合は、そんなに大きくないから流れに任せた巡り会いがちょうどいい。

探し求めるってことは、探し求めた人の人生の道に自分が関わっていくことなんだろうと思う。

わたしの道にも、そう思える人が何人か居たね。でも、やがて自分の道に戻って行ったよ。






多くの人たちを見ていると、その人たちの道には触れることもないだろうと感じ取れるものがある。自分の人生に関わりがないんだろうね。

個人的には関わり無くとも同じ空気を吸い、同じ時代を生きている。大局的に見れば大きな輪に関わる間柄ではあるけどね。























とんでもない奴と関わりのある人生なんか誰も求めない。でも、悪いクジ引くのかどうか、そんな道を生きる人も現に多く居る。

人間は「生かされている」っていう捉え方がある。天上の見えぬ神さんかね、その神さんから、其々が荷物背負わされて此の世に生まれ出でる。

背負った荷物が、此の世で果たさねばならないノルマなんだろうね。人智で計れぬ「定め」って言うやつだろうと思う。






人が 「不公平、不平等」って嘆く事象を、諦め悟るには、もっともな捉え方だと思うね。

自分の力で「生きている」って、言い切れるほど人間は強くない。いろんな恩恵を知らずしらず受けて救われているのが事実だからね。

人より結構な人生を生きた人は、自分に宛がわれた「定め」に感謝して謙虚に静かに死になさい。「なんやねん、それは」
































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