脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

自分は何者であるのかまたはありうるのか

2012-08-06 21:59:07 | 私の思い 2
人の人格は幼い頃から
長い時間をかけて
その経験や人間関係や
さまざまな要因によって作り上げられる。


であるならば、
私は
親よりも長い時間を共に暮らした
夫との生活によって
築き上げられたものもかなり多いだろう


そこには
常に夫がいて
私を支えてくれていた。


夫がいなくなり、
支えを失い
寄り添うひと(夫)を失い
共に闘うひと(夫)も失った
残ったのは闘い続けなければならない相手(病)だけだけだった


それ以前の
文字通り寝食を忘れて取り組んだ活動は
夫の看病のために
すべて
若いひとたちにおまかせしたので
私の戻れる場所はない。


新しく生き直すためには
すべてを再創造しなければならない。


自分自身も
新たな目標も
そして
支えのない
不安定な心も。


でももう、
私にはそれだけのエネルギーも力もない




今日、カウンセリングでそのことをお話した。
「生きていく目的も理由も見つけられないんです」と私。
「でも、ほとんどの人はただ何となく生きているんじゃないですか?」と言われ、
確かにそうなのかも知れないけれど
少なくとも、
私が知るかぎり、
障がい児の親
命に関わる病をもったご本人、
そのご家族、
そして大切なひとをなくした人たち…
みんな、懸命に生きておられる。
誰も「何となく」なんて生きていない。
一日一日を祈るような思いで過ごしておられる。


昨年のこの夜、
まんじりともせず
ずっとずっと夫の手を握りしめていた。
だんだんと間遠くなっていく呼吸、
下がってゆくサチュレーションの数値を見ながら、
「ごめんね」「何もできなくてごめんね」と言い続けた。


あの時、
夫の手はまだ暖かかった。


私は
これから
何者として生きてゆけばよいのだろう?


答えは見つからないまま
明日は命日。


君恋し
日がたつほどに募る思い
共に過ごした歳月甘し