去った日曜日のことだ。
月に一度のとあるホテルでの
コーヒータイム。北部まで、
40分かけて行ってきた。
おいしいケーキとコーヒーを愉
しんで、その後、帰宅し、隣の
スーパーの「豚カツ屋」で、天
ざる蕎麦を食べてきた。
今までも、蕎麦を食べてきたが、
どういうわけか、最近、蕎麦の
味に、開眼したようで、蕎麦に
拘るになっている。
思い出せば、18歳の時、東急大
井町線の大井町駅の構内で、慌
ただしく食べた朝御飯替わりの
蕎麦が最初だったろう。
安かったのだが、まずくもあった
ことを覚えている。しかし、手軽
だったので、よく食べたものだ。
もっとも、生卵は、無理だった。
あの作り方をみて、まずくてもし
ようがないかも。納得はしたが。
安かったし。
あれから数えたら、50年の歳月が
経っている。びっくりである。
幸いにも、隣のスーパーで、お気に
入りの天ざる蕎麦に出会えて喜んで
いる。
実は、昨年もこの蕎麦を食べたのだ
が、冷やしすぎて、恐ろしく冷たい。
それで、出されたお茶で、温めて
食べていた。
今年、そういう不手際はなく、適度
に冷えて、美味しくて、喜んでいる。
豚カツ屋で、天ざる蕎麦に拘ってい
るのは、なんとなく微妙な気分であ
るが。
わたし個人的には、蕎麦良し。天ぷら
良し。つゆ良し。天つゆもついて、飽
きずに食べている。
ところで、
蕎麦を愉しんでいる最中、店内にBGM
が流れてきた。
Beautiful Dreamerである。
私達の世代だったら、子どもの頃フォス
ターの曲に親しんだ記憶があるのでは。
夢路より かえりて
星の光 仰(あお)げや
さわがしき 真昼の
業(わざ)も今は 終わりぬ
夢見るは 我が君
聴かずや 我が調べを
生活(なりわい)の 憂いは
跡(あと)もなく 消えゆけば
夢路より かえりこよ
海辺より 聴こゆる
歌の調べ 聴かずや
立ちのぼる 川霧(かわぎり)
朝日受けて 輝(かが)よう
夢見るは 我が君
明けゆく み空の色
悲しみは くもいに
跡もなく 消えゆけば
夢路より かえりこよ
この歌詞、懐かしいものを
感ずる方もいらっしゃるだ
ろう。
年をとったせいか、この歌
詞が美しく響く。
このような奥ゆかしい情趣、
気品。日常であった日があ
ったのだ。
70年代の吉田拓郎以来、私達
は、私達の世代の新しい歌詞
を得ることができたのだが、
このような情趣をおいてけぼ
りにしてきた。
久しぶりに、このような歌詞に
ふれると、自分の情趣を美しく
整えて、語ることも大事な教養
のひとつかとも思う。
歌詞が持つ「気品」に心洗われ
る。
もしかすると、慰安婦問題で
激昂している理性をいうもの
を理解しない彼の国の民に
は理解できない情趣かも。
もっとも、漢字を棄てた国民
だ。文化的・歴史的文盲に
成り果て、考え方も感じ方も
忘れてしまい、理解できない
かもしれない。
それはさておき。
「夢路」
綺麗な言葉ではないか。