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リタイアーのよもやま話

居心地のいい場所から、一歩踏み出して

2011-07-02 22:31:41 | 若い時に読みたかった本

結成45年、グラミー賞常連の人気ジャズ・
オーケストラに学ぶ

人生のチャンスをつかみとる47の方法


前に進む力
step out of your comfort zone
(居心地のいい場所から、一歩踏み出して)

ダグラス・パーヴァイアンス=著
跡部徹=訳

ディスカバー

 

本屋にいたら、このタイトルが目にはいった。
音楽業界の話しのようだったので、興味をひいた。


本の帯びには、こう書かれている。


1966年の結成以来45年にわたり、ニューヨークの
名門ジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」を拠点
に現在も最前線で活動する。

「ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ」名リーダーが
語る〝挑戦し続ける人とチームの条件〟


居心地の良い場所(コンフォートゾーン)にいては何も起こらない。
リスクを取って、その一歩を踏み出そう。

とある。


居心地の良い場所(コンフォートゾーン)という言葉、苫米地氏の
本で知った。

意外なところで、この言葉を見つけたことも本を読む
切っ掛けとなった。

 

非常に真摯な生き方が語られていて、好著であった。

わたしの個人的感想であるが、進路指導の本として、多く
学べると思った。

だから、小5年あたりで、一度読む機会があったら、最高
だと思った。

というのは、イチローや石川遼、今若才能は、皆、小学生
の段階で、自分の将来の夢を掲げて、人生をスタートさせて
いるからである。

しかし、この本は、中学の時、高校の時、大学の時、そして、
新入社員になった時、人生のその時々のステップで、読み
返してみても、多く学べるものがあると、感じた。

こんな真摯で、誠意に満ちた人生を送る人がいたなんて。

須藤元気氏は、「一流になりたかったら、一流の人たちが
いるところに行けばいい」と言ったが、なるほど、その通り
である。しかし、なかなかそのようなことができない。

たまたま、偶然に一流の人のところで、何かを学ぶ機会を
得た人たちがいるもので、そのような幸運を得たひと達が
羨ましくならない。

とは言え、誰もがそのような幸運に恵まれるわけには
いかないと思うので、一流の人が書いた本にでも、親
しんで、少しでも薫陶を受けるしかない。

いい本であった。

若い人が自分の人生について、考える時に、ぜひお勧め
であると思った。

本屋で見かけたら、お試しあれ。である。


破綻した神キリスト

2011-06-26 06:16:53 | 若い時に読みたかった本

破綻した神キリスト

バート・D・バートン=著
松田和也=訳

柏書房を読み終えた。

この本の原題は、『神の問題ー聖書はわれわれにとって
最も重要な問題、すなわちわれわれはなぜ苦しむのかと
いう問題に如何に答え損ねているか』である。


ところで、この本の「訳者あとがき」にこういうことが
書かれている。

以下、抜粋。

幼い頃から筋金入りのキリスト教徒として育てられ、思春期
の内に福音派(アメリカのプロテスタントの中でも原理主義的
傾向で知られる宗派)の「霊的再生」を体験し、長じては
新約聖書を専門とする宗教学者となったアーマン。

この経歴を見る限り、彼が妥協を許さぬ筋金入りのキリスト
教徒であるということは想像に難くありません。

事実、若き日のアーマンは、聖書に書いてあることはすべて
正しく、一字一句に至るまで神の霊感によってできているの
だという「逐語霊感説」を固く信じていました。

聖書の言葉を正しく知りたいと熱望するあまりギリシア語を
学び、聖書写本研究の道に入ったのです。


豊富な学識と真摯な学問的良心を備えた当代随一の聖書学者が、
真の「神の言葉」を求め、半生を賭して研究に打ち込んだ末に
辿り着いたのが「不可知論」であったというのは全く皮肉な話
ですが、我が国よりも遥かにキリスト教の影響力の強い合衆国
においてはこの事実は多くの人にとって衝撃的であったらしく、
本書の原書は発刊後ただちにニューヨーク・タイムズ紙のベスト
セラーに躍り出ました。

以上。

 

そして、彼は、本の最後にこう言っている。

 

だが結局、私は苦しみの問題について最終的には聖書に同意
することを認めざるを得ない。

私が同意するのは、『コヘレトの言葉』に示される見解だ。

この世にはわれわれに理解できないことなどごまんとある。

この世の多くの出来事には意味などない。

時には正義などどこにもないこともある。

物事は計画や予想の通りにはならない。

悪いことは数限りなく起こる。だが人生には善いこともある。

人生に対する解とは、生きているうちにそれを楽しめという
ことだ。

なぜなら生は儚いものだから。この世は、そしてこの世の
すべてのものは、儚く、移ろいやすく、すぐに消えてしま
うものだ。

われわれは永遠に生きるわけではない-永遠どころか、長く
すら生きられない。

だからわれわれは人生を十全に、可能な限り、できるだけ長く
楽しむべきなのだ。

これこそが『コヘレトの言葉』の著者の考えであり、私も
同意する。

 人生は一回限りだ。聖書にそう書いてあると言っても、学生
たちは信じられないという顔をする―だが本当なのだ。

これこそまさに『コヘレトの言葉』の教えであり、また他の
偉大な思想家、たとえば『ヨブ記』の韻文対話篇の記者なども
これに同意している。

だから私は結局のところ、聖書思想家と言えるのかもしれない。

いずれにせよ人生が一回限りだからといって、絶望したり意気
消沈したりする必要はない。

むしろ逆だ。人生は喜びと夢の源泉でなくてはならない-束の
間を生きる喜び、そして自分にとっても他者にとってもこの
世界をより良いものにしていこうという夢である。

 言い換えれば、われわれは苦しみを緩和し、希望なき世界に
希望をもたらすために努力せねばならない。

現実にわれわれは、世界の人々を苦しめる諸問題に対してもっと
もっと対処していくことができる。


以上。

彼の著書は、


キリスト教の成立の謎を解く
改竄された新約聖書

バート・D・アーマン=著
津守京子=訳

 

捏造された聖書

バート・D・アーマン=著
松田和也=訳

柏書房

 

破綻した神キリスト

バート・D・バートン=著
松田和也=訳


と3冊たて続けに、読んでしまった。

感想として、非常にギリギリのいいタイミングで
この本に出会えて良かった。というこである。

もっと遅かったら、その得た収穫を活かす機会を
逸してしまっていると思えるからだ。

本来なら、私自身が唯物論に凝った学生時代に
読めてたら、良かったような気もするが、今で
良かったような気もしていて、複雑である。

というのは、ヨーロッパ・アメリカ系の音楽や
映画等は、キリスト教の影響を多いに受けた
作品作りになっている。

だから、これらの作品を見たり聴いたりして、
白けてしまっていたりしては、あまりにも
興ざめな時間が膨大になったりして、これは
これで、ちょっと迷ったりするからである。

これらの本を読んで、本当の意味で、キリスト教の
本質に迫っていて、著者に感謝である。

キリスト教、一言でいって、ネグレストにあった
子どもの悲痛な思いに通ずるような気がしてなら
ない。

親の助けなくしては、生きていけない子どもが、
虐待にあっても、屈折した気持ちで、親を美化して
親に頼らなくては。

まるで、加藤諦三の世界である。

高校時代、彼の本を読んで以来、彼の本をけっこう
読んできたが、年をへて、彼の執拗さに辟易する
ようになった。

しかし、今回の本を読むにあたって、その理解のために、
おおいに役立つような気がして、彼の本を読めたことは
これまた、感謝してよいのかも知れない。


楽園とかという「アメ」につられた「仮面ひきこもり
症候群」の民が増えており、現実を知る力のない者
まで、勧める気にはならないが。

睡眠不足の人間にとって、睡眠薬が必要なように。

阿片や麻酔が必要な人がいることも、致し方ないと
思う。

が、できれば、わかい世代に読んでもらえたら、と思って
やまない。


捏造された聖書

2011-06-18 11:14:38 | 若い時に読みたかった本


捏造された聖書

バート・D・アーマン=著
松田和也=訳

柏書房


最近買って、やっと読み終えた。

この本について、著者は、「はじめに」おいて、こう述べて
いる。

以下、その抜粋。


 こうして私は、新約聖書の写本への興味に引き戻された。
そして「本文批評」と呼ばれる分野でこれらの写本を研究する
ようになった。

本文批評は実に興味深く、説得力溢れる研究分野だ。

学者にとってだけでなく、聖書に興味を持つすべての人に
とって(聖書直解主義者も、直解主義から立ち直りつつある人
も、どう転んでも直解主義になんてなりそうもない人も、あるい
は歴史的・文化的現象としての聖書になんてほとんど関心のない
人にとってすら)、真に重要なものだと信じている。

だが、何と言っても困ったことは、この本の読者のほとんどが
―たとえキリスト教や聖書や聖書研究に興味のある人であった
としても、そして聖書が無謬であると信じているかどうかは関係
なくー本文批評についてほとんど何も知らないということだ。

しかもその理由も理解できる。

これがしっかりした学問分野として確立してから三百年以上も
経つというのに、これについて解りやすく書かれた一般人向けの
本がほとんど一冊もなかったということだ。

ここで言う一般人というのは、本文批評のことなぞ何も知らず、
その研究に必要なギリシア詰やその他の言語も知らず、それどこ
ろかテキストに「問題」があることにすら気づいていないが、
そこに問題があると言われれば、いったいそれは何なのか、
そして学者たちはその問題にどう取り組んでいるのかというよう
なことについて興味を抱いてくれる人である。

 この本は、つまりはそういう本だ-私の知る限り、そういう
本としては世界初のものだと思う。

本文批評については何も知らないけれど、書記たちが聖書をどんな
風に改竄したのか、なぜそんなことが解るのかというようなことに
興味を持ってくがさるあなたのために書いた。

内容は、この分野について三十年以上にわたって考えてきたことに
基づいていて、聖書観のラディカルな変化を体験した今の私の観点
によるものだ。

今の新約聖書がどうやって出来たのか、オリジナルの著者の言葉が
わからないとはどういうことなのか、その言葉がどんな興味深い
理由で改竄されたのか、そして私たちが厳密な分析方法をどんな
ように適用し、本物のオリジナルな言葉を再現していくか、という
ようなことに興味を持つあなたなら、楽しんで読んでいただけると
思う。

というわけで、これは多くの点て私にとっては個人的な本であり、
長い旅の終着点とも言うべきものだ。

でも他の人にとっては、それぞれの旅のお供になってくれるものだと
思う。


以上。

この文章は、「はじめに」の最後の方に、書かれている。
この内容を読むと、まさに、わたしが待ち望んでいた本のようだ。

わたしの心の中で、長い間、待ち望んでいた解答である。

いつの日か、解答は出てくるものだ。

わたしが、最初に聖書を読んだのは、中学3年か高校生の1年の頃
だから、40年以上も時間が経った。

20代に、唯物論に凝って、「宗教は阿片だ」という言葉が記憶に
残っていたが、それ以上の論理が展開できなかった。

いつかは、待っていた解答に出会うものだ。

この著者が本を書いた趣旨に適う人がいたら、ぜひ、一読を勧め
たい。

できれば、高校生から大学生に読めたら、最高ではなかろうかと
思うのだが。

それから、この本が気に入った理由がある。

それは、本の書き方で「真摯さ」に満ちあふれていることだ。

時折、自分の主張することに夢中になって、勇み足になったり、
辟易するほどの冗長さで、読む方がしらけるものが多々ある
のだが、この本は、誠意あふれた著述になっていて、読んでいて
学問をするとは、どういうことかを知らしめてくれるようで嬉し
く思われてならない。

その本を書く姿勢とは、どうあるべきかということだけでも、
読むに値するようにも思われた。

 

 


キリスト教成立の謎を解く

2011-06-05 23:26:58 | 若い時に読みたかった本

キリスト教成立の謎を解く
改竄された新約聖書

バート・D・アーマン=著
津守京子=訳

柏書房


タイトルにつられて、なんとなく買ってしまった。

 
本の帯びの表には、こう書かれている。


「宗教批判で展開されたキリスト教研究の成果を、
わかりやすく解く。
批判的にキリスト教を紹介する傑作!」

佐藤優氏推薦!!


本の帯びの裏には、こう書かれている。

 

現代人は「天にまします神」や「死体からよみがえったイエス」
などの神話をそのまま信じることはできない。

欧米では、神学、哲学、宗教学などの専門家がキリスト教に対する
批判的研究を行っているが、その内容が日本ではあまら知られて
いない。

本書の刊行によって、批判的なキリスト教研究についての概要
を神学に関する専門的知識をもたない人でも知ることができる
ようになった。

教養として、一歩踏み込んだキリスト教に関する知識を得ようと
する人にとって、最適の書だ。
             
            佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

 


目次

 


まえがき…………9


第一章 信仰に突きつけられた歴史的挑戦………………………13
 神学生のための聖書概論
 聖書が抱える問題
 神学校から説教壇へ
 歴史的・批判的手法の受容

第二章 矛盾に満ちた世界…………………………………………33
 例証の手始め-『マルコ』と『ヨハネ』におけるイエスの死
 イエスの死と生涯に関する記述の矛盾
  イエスの誕生/イエスの系譜/イエスの生涯に関する記述の
  その他の矛盾/受難物語における矛盾
 パウロの生涯と書簡に見られる矛盾
 結論

第三章 山積する様々な見解………………………………………81
 序説『マルコによる福音書』と『ルカによる福音書』における
 イエスの死
 『マルコ』におけるイエスの死/『ルカ』におけるイエスの死/
  結論
『ヨハネによる福音書』と共観福音書の主要な違い
  多岐にわたる内容/力点が置かれているテーマの違い/イエス
  の奇跡
 パウロと福音書記者の主要な違い
  パウロとマタイの描く救済と律法
 新約聖書における他の様々な見解
  なぜイエスは死んだのか?/イエスはいつ神の子、主、そして
  メシアになったのか?/
  神は偶像崇拝者の無知を見逃してきたのか?/ローマ国家は善
  の勢力か、それとも悪の勢力か?
 結論

第四章 誰が聖書を書いたのか?………………………………126
  誰が福音書を書いたのか?
   序論 目撃証言としての福音書/福音書記者/パピアスの
   証言/イレナエウスらの証言/
  新約聖書には偽造文書が含まれているのか?
   古代におけるスーデピグラフィー/初期キリスト教の偽文書/
  パウロの偽書簡
  『テサロニケの信徒への手紙二』/『コロサイの信徒への
   手紙』と『エフェソの信徒への手紙』/『牧会書簡』
  新約聖書の他の書を書いたのは誰か?
  結論 誰が聖書を書いたのか?

第五章 嘘つき、狂人あるいは主? 歴史的なイエスを求めて…167
  イエスに関する初期史料
   口頭伝承/イエスの生涯を再構築するための他の史料/歴史
   資料の正確性を確立する基準
  黙示思想的預言者としてのイエス
   イエスの教え/イエスの行いと活動
  補説 イエスの生涯で起きた復活やその他の奇跡

第六章 いかにして私たちは聖書を手に入れたのか……………214
  新約聖書の「オリジナル」テキスト
  聖書聖典の成立
   初期キリスト教教会の驚くべき多様性
  外典
   エピオン派の福音書/コプト語の『トマスによる福音書』/
  『テクラ行伝』/『コリントの信徒への手紙三』/『バルナバ
   の手紙』/『ペトロの黙示録』/コプト語の『ペトロの黙示録』
  正典成立に至るまでの議論
  『ペトロによる福音書』の場合/正典をめぐる試み―『ムラトリ
   正典目録』/
  初期教会における正統と異端
   エウセビオスから見た正統と異端/ヴァルター・バゥアーの
   爆弾/バゥアー以後
  闘争のための武器
   聖職者/信条/正典
  結論

第七章 誰がキリスト教を発明したのか?………………………261
 苦悩するメシア
  キリスト教徒のメシア観/ユダヤ教徒が待望するメシアの到来/
  キリスト教徒の主張の根拠
 独自の、反ユダヤ的宗教としてのキリスト教
  イエスの宗教と最初期の信者/後世の信者の反ユダヤ的教え/
  キリスト教の反ユダヤ主義の出現
 イエスの神性
  イエスはいつ神の子になったのか?/ヨハネの共同体における
  キリストの神性/
  同じ目的地に向かう異なる道
 三位一体の教義
  神は何人いるのか? いくつかの答え/二つの非正統的・正統的
  解決法
 天国と地獄
  死後の世界に対する初期の黙示思想的解釈/黙示思想的展望
   の変遷
 結論


第八章 それでも信仰は可能か?…………………………………314
  歴史的批判と信仰/歴史と神話/信仰との決別/歴史的批判の
  神学的価値/
  それならなぜ聖書を研究するのか?


以上。

 


その中で、イエスについては、このように語っている。

以下、抜粋である。


黙示思想的予言者としてのイエス

イエスの教え
 同時代の黙示思想家同様、イエスは、世界を二元論的に捉えて
おり、世界は、善と悪の勢力に分けられると考えていた。

そして、彼によれば、現在は、悪魔や悪霊、病気、災害、死などの
悪の支配下にある。

しかし、まもなく神が、悪の勢力を駆逐すべくこの邪悪な時代に
介入し、善なる王国、すなわち神の国を打ち立てるのである。

神の国では、もはや痛みも苦痛も苦悩も存在しない。

イエスの信者は、この王国の到来が間近に迫っていることを期待
してもよいのだった。

しかもなんと彼らが生きているうちに到来することを。

王国は、(旧約聖書の『ダュエル書』七章十三節から十四節を
暗に示唆して)イエスが「人の子」と呼ぶ、地上の宇宙的審判
者によってもたらされる。

人の子がやって来ると、地上で審判が下され、邪な輩は滅ぼされ、
正しき者が報われる。

苦痛と辛苦に苦しむ人びとは高められ、反対に悪に味方し、その結果、
現在栄えている貶められる。

したがって、民は自らの悪行を悔い改め、来るべき人の子と彼が目覚
めた後に訪れる神の国に備えなければならない。

なぜなら、その時は目前に追っているのだから。

 

 福音書に見られる最初期のイエス観が、こうしたものであったこと
を示す証拠については、すでに述べた。

前章で指摘したように、イエスは、共観福音書のなかで、来るべき
神の国について説いている。
この神の国は、死んだ後に行く「天国」ではない(「天国」は、後代に
キリスト教が作り出した観念である。ある。このことについては、
七章で取り上げる)。

神の国は、地上に出現する現実の王国であり、メシアを通じて、神に
よって統治される国である。

最初で最後の、ユートピア的な王国である。

福音書である『ヨハネ』のイエスだけが、この王国がまもなく到来する
ことに言及していない。

それはなぜか? 

疑いようもなく、王国が待てど暮らせど出現しなかったからである。

それで、『ヨハネ」の記者は、自分の時代に合わせて、イエスのメッ
セージを再解釈せざるを得なかったのだ。

しかし、最古の福音書に書かれている伝承では、まもなく王国が訪れる
ことこそが、イエスの言いたかったことだとされている。

以上。抜粋。


イエスは、彼が生きていた時代のユダヤ人における一般的な考え方を
していたということが語られている。

(別に彼だけが特別だったわけではないということである。)

つまり、黙示思想的予言者としてのイエスが本来の彼の姿だという
ことである。

非常に大雑把だが、彼が生きている間に、邪悪な者は滅び、イエス
の教えに従う者だけが生き残ると。

そして、地上に神の国ができる。

ちょっと乱暴だが、神による地上の革命である。
ただ、旧勢力は全て排除される。生き残れない。

邪悪の者とは、ローマ及びローマの傀儡勢力の者達のことでもある。
ローマの帝国支配で起こった全ての苦しみのことかもしれない。


わたしが、最初に聖書を読んだのは、中3に入ってからかもし
れない。
高校では、学校へ聖書の寄贈があって、それを読んだ記憶がある。

かといって、信者になったわけではない。
物珍しさである。

大学にはいって、唯物論に凝ったから、宗教は拒絶してきた。

ただ、キリスト教の存在は、大きいので、それに対して自分の
立ち位置をどうするかというのは、大きな課題であった。

キリスト教の歴史の全集を買ったりした。
しかし、買っただけで、満足して読んでない。

今回、何気なく読んだ本であったが、遠い2000年前の話をちゃん
と論理立てて研究できるなんて、考えてもみなかった。

わたしが、信者になるわけではない。返って自分の無神論を強固
にするための資料になった。

今まで、読んだ本で、こんなにまで、理路整然とした本を読んだ
記憶がない。

それも、2000年前の話題についてである。

この本を読んで、学問とはこのようにするのかと、感嘆してし
まった。

ヘーゲルの本を読んで、「神」という一言で、論理を飛躍
していくことに、戸惑いを覚えたが、今回の本、爽快な気分
になってやまない。

キリスト教に対して、どう対峙するかと思われた方には、お勧め
かもしれない。

できれば、高校生か大学生くらいに一度を、目を通すことができた
ら、何かしら、大きな財産になるかもしれない。

いや、私自身のことで言えば、大学生くらいの時に、読んで
おきたかった。

今までのキリスト教に関する「モヤモヤ」が、一掃されて爽快
な気分である。

やはり、待てば、いつかは、解答が出てくるものだ。

これまでの「わだかまり」の一つが、克服できて、嬉しい限り
である。

少し、幸せな気分になる。

ところで、もう一つ拘り続けてきたことがある。

森鴎外の山椒太夫で、安寿が入水自殺した理由が、今だに分から
ない。

中学校の教科書にあった話である。

だいぶ前に、本を買い直して、読んだが、やっぱり分からなかった。

森鴎外は、従来の話を彼なりに、作り直したようだが、どうして、
理由が分からないような書き方をしたのだろう。

あまり、無理に憶測しても、なんだし。

ところで、やがて、11時30分になろうとしている。

北側の窓から風が入ってくる。
扇風機をまわして、南側の窓に向けている。

突然、香水のような爽やかな匂いがしてきた。

むさ苦しい部屋に、一瞬爽やかさが漂った。

40メートル先に、スーパーの職員出入り口がある。

その従業員の匂いかな? 帰宅する?

不思議な気分である。

 


 


「心を整える」勝利をたぐり寄せるための56の習慣

2011-05-30 23:51:11 | 若い時に読みたかった本

「心を整える。」
勝利をたぐり寄せるための56の習慣
長谷部誠=著
幻冬舎=出版

この本が、新聞の書評欄で紹介されていた。
その紹介が興味深かったので、いつか、読んで
みたいと思っていた。

偶然、数日前に、見つけたので、喜ばしく思い、
早速読むことにした。

彼は、この本を書いた時点で、27歳ということ
であった。

わたしは、よく知らなかったが、プロサッカー
選手ということもあって、興味深かった。

読み終わって一言。

良い本だと思った。

小学校高学年から、高校生までに、この本を読んで
おきたかった。というのが本音である。

このような本と、このような人と若い時に、出会って
いたかったものだと思っている。

そうしたら、わたしの人生も、違うものになっていた
気がする。

残念でならない。

今の若い人にも、ぜひ読んでもらいたいと願って
やまない。

普段から、読書の習慣をもち、孤独に浸かる時間を
大切にしている。と言っているが、そのことは、本の
つくりかたにも充分に伺える。

本の最初から、最後まで、丁寧に作られていて感心
しているが。

今まで、気づかなかったことがあった。

本田宗一郎氏の著書で、気に入った言葉を紹介していた。

「惚れて通えば、千里も一里」
好きなものは時間を超越する。

この文章である。

「惚れて通えば、千里も一里」この言葉は、よく知ら
れている言葉である。

このよく知っている言葉の理解が、実に浅いものだった
と感じ入ったことだ。

今回、この言葉に。

本田宗一郎氏の「好きなものは時間を超越する。」という
文章が続いたことで、全く違う感想を抱いた。

これを単純に「恋の歌」と思っていたことが失敗で、
あった。

人生において、何が、成すに値するかということも
この「感覚」であったということに、今さらに気づいて
しまった。


「惚れて通えば、千里も一里」
好きなものは時間を超越する。

本田宗一郎氏においては、車作りこそがこのことで
あったのだ。

結局、人生で、大事なことは、そういうことにつきる
ということであろう。

残念ながら、気づくのが遅すぎたようだ。

であるが、そうだとしても、果たして、わたしに、

「惚れて通えば、千里も一里」に値するものが
あったろうか。

ちょっと、心もとない。

ところで、最近、思っていたことで、今回もその思いを
再確認したことがある。

イチローを初め、マスコミを賑わす多くのアスリート
の履歴を読むと、幼児・児童期から、自分の夢や憧れ
に忠実に、突き進んできたということがある。

そのようなことが、可能になるほどに、社会が熟して
きたということと、このような生き方を支援できる家庭
(両親)が出現しているということに、わたしたちの時代
との違いに、衝撃を覚える。

こんな話なんて、歴史に残る芸術家の話だと思っていた
からだ。

こういう時代が来たんだと、そう、家庭の力がものをいう
時代がきたんだと。

なんとなく、このような人生を展開できた人たちに
羨望の念を覚えるが、多くのわたしたちの世代には、
望むべくもないことだったことも事実である。

とはいうものの、羨まくてしようがないものだ。

ところで、不思議なことは、なぜ二世議員は疎まれている
のだろう。