増える 書店ゼロの街
街のどこにも本屋さんがない。そんな市町村が
増えている。
首都圏でも、筑波研究学園都市に隣接する茨城県
つくばみらい市が、全国に四つある「書店ゼロの
市」の一つに。
一方、北海道留萌(るもい)市では官民一体と
なって書店を誘致し、ゼロから抜け出すなど、新し
い動きも出始めている。 (中村陽子、写真も)
「本をどこで買いますか?」。つくばみらい市内の
つくばエクスプレス(TX)「みらい平」駅前。立ち
話をしていた三十代の主婦二人に質問すると「ないん
ですよ、本屋さんが」と、顔を見合わせてうなずいた。
「引っ越してきてびっくりしました。大の読書家の
夫は、車で隣の守谷市まで買いに行ってます」
二〇〇六年に伊奈町と谷和原村が合併したつくば
みらい市。
みらい平駅から都心の秋葉原駅まで、〇五年に開通した
TXで最速四十分というアクセスの良さもあり、六年間
で人口が一割以上増えて四万六千人余になった。
ところが近隣の市に大型書店ができた影響などから、
関東鉄道小絹(こきぬ)駅近くのチェーン書店が閉店。
五年ほど前から市内に書店がない状態だ。
書店の動向に詳しい出版社「アルメディア」(東京)
の加賀美幹雄代表は、TX発着駅の秋葉原に大型書店が
できたことを挙げ「地元客が大都市の商圏に吸収されて
しまった可能性もある」とみる。
同社の調査では、今年五月現在、全国の自治体の17
%にあたる三百十七市町村が「書店ゼロ」。五年前より
八市町村増えた。
市では、鹿児島県垂水(たるみず)市でも書店が姿を
消した。
つくばみらい市には昨年、駅前への書店誘致を求める
投書が相次いだ。
市産業経済課がチェーンの書店に出店を働き掛けたが、
色よい返事はなかったという。
「民間の商売なので、こちらの希望だけで進めるのは難
しい」と担当者は話す。
一方、ゼロから新たに書店が誕生した例もある。留萌市
に昨夏オープンした三省堂書店の支店「留萌ブックセンタ
ー」だ。
JR留萌駅から車で十五分。国道沿いの百五十坪の店内
に十万冊を置く。
人口二万四千人の留萌市は、一〇年末に唯一の書店が
閉店。
「一番近い本屋さんも車で一時間かかるようになった」と
主婦武良(むら)千春さん(50)は振り返る。
武良さんは市立図書館や道留萌振興局に相談し、有志で
誘致団体を結成。
一一年春、「出店したら、ポイントカードの会員になる」
という二千人以上の署名を書店側に提出。こうした熱意が
実って出店が決まった。
開店から一年。店は武良さんら市民が、ボランティアで
支援している。
約二十人が交代で、早朝から雑誌に付録を挟む作業などを
手伝う。
店長の今拓己さんは「店員は八人ほど必要です。でもうち
は六人雇うのが精いっぱい。みんなに助けてもらっている」。
行政も後押しする。道は三省堂書店と協定を結び、イベン
トや観光のPRなどで互いに協力する。
武良さんは「予想もしていなかった方向に協力が広がっ
た。ブックセンターはいま、本を買う場所以上の存在」と
言う。
留萌の例は、つくばみらい市などにも応用できるのか。
三省堂書店本社(東京)の担当者は「留萌の場合、店を
継続できる程度の売り上げはあり、成功とみている」と話
すが、「市民の熱意と行政の協力が重なったまれな例。
採算を度外視した出店はできず、どこでも出せるわけでは
ないと慎重だ。
「『本屋』は死なない」(新潮社)などの著書があるライ
ター石橋毅史(たけふみ)さんは「街の書店の経営はビジネ
スとしては厳しく、姿を消すのも当然の流れ。
だが、経済的価値と異なる『別の何か』を求める人も増えて
いる。
書店はその『何か』を手渡す場所になり得ると思う」と話す。
以上。
大きな本屋ができて良かったと思っているうちに、大資本
の系列の大きな本屋が出現した。
すると、いつの間にか、30代半ばまで、町のあちこちにあっ
た個人経営の本屋が次々と消えていった。
バブルで、一時、本屋が増えたのに、バブル崩壊とともに、
あれよあれよという間に、消えていった。
わが市(合併前)においても、個人経営の4箇所の本屋が消え
た。
今、かつてわたしが通った本屋は2箇所残っているが、
これまでの本屋の趣は残っていない。
かつて、本屋巡りをしていた魅力は失っている。
しかし、わたしは恵まれている方である。わたしの
住んでいる地域に本屋が乱立している。
小さな本屋が消えた代わりに、大型の本屋が進出して
きた。
南3㎞先に、大型店舗の宮脇書房。南1㎞ほどに、
ツタヤ。
東4㎞先に、イオンのジャスコに小さけど良い本屋。
隣のスーパーに大型店舗系列の田園書房。
その北隣のスーパーに、大型店舗の宮脇書房。
これらの本屋は、ときどき回っているが、いい本を
見つけることができる。
従来の本屋は、商店街と一緒になってあった。だから、
日常の生活と本屋が密着していたと思う。
その点、現在の本屋は、車社会に対応した構造の町に
あった本屋となっているので、かつての本屋ほど、
日常的な存在ではない。
自然と自家用車で乗り付けなければ、本に接する
ことができないような気がする。
そういう意味では、子どもにとって、町の本屋が無く
なったことは、生活環境が貧しくなったことになる
かも知れない。
わたしの市と合併した他の町村では、本屋が一件も
無かったような気がするし、わたしの市(合併前の)
の中心街では、四つの高校、二つの中学校、三つの
小学校の児童生徒が遊び回っているが、まとな本屋
がない。
この実情を見ると、寒々とした思いがする。
インターネット時代とはいえ、日常の生活に本屋が
ないのは、何かしら歪さを生み出すのではと思う
のだが。
わたしは高校生の時に帰宅途中、学校から数㎞離れた
中心街のバス停まで歩く時があった。
そのバス停の手前で、大通りから少し脇道みたいな
通りにあった小さな本屋に立ち寄り、本を買い始めた。
宮城音弥氏の書いた岩波新書の心理学の本がそのうちに
入っていたはずだ。
それ以来、心理学に興味を持ち出し、脳科学の世界に
も興味を持ち出した。
わたしがマルクス主義にかぶれたのもその延長だし、
老荘の世界に興味を持ち出したのも、もとはと言えば
あの小さな古本屋との出会いだろう。
あの4畳半もあったどうかの小さな本屋、今となっては、
わたしの蔵書の方があの本屋の本を何倍も上回っている。
なんとも不思議な気分だ。
あの当時の町は建物は古すぎて、区画整理で消えてしまった。
区画整理で消えてしまったあの小さな本屋が、わたしの知的
ディレッタントな生活の真似事の始まりだった。
今、ブログを書いている生活、もとはと言えば、消えて
しまったあの小さな本屋との出会いで、始まった。
追記
わたしのとなりのO市では、よく通った本屋が、
8軒も無くなった。