保坂隆氏の「老いを愉しむ言葉」という本の中の話で
ある。
その中で、興味深い話があった。
以下、その内容である。
古代のインドでは、人生を四つの時期に分けて考えていた
という。
生まれてから25歳までが「学生(がくしょう)期」。
学問・学習をして、体験を積む時期である。
25歳から50歳までが「家住(かじゅう)期」。仕事を持ち、
結婚をして家庭を築く時期になる。
50歳から75歳が「林住(りんじゅう)期」。
もはや金のために仕事をする必要はなく、本当にしたいことをする、
人生でもっとも充実した
時期。
その後は、旅に出て、自分が何者かを見極める「遊行(ゆぎょ
う)期」となる。
古代インドと現代では人の寿命が格段に違い、この年齢軸がその
ままあてはまらないと考える人もいるかもしれない。
確かに古代インドでは、伝染病などで年若くして命果てる人は
少なくなかったが、そうした難を逃れて生き長らえた場合は、
寿命はかなり長かったようだ。
たとえば、釈迦は過酷な修行を重ねた人生だったが、入滅は
80歳。
長寿時代といわれる現在とほとんど同じ長さの人生を生き切
っている。
いまの日本でも、50歳を超えるころになると、仕事をして
いる人なら定年の影が視界にちらつくようになってきて、老後
の二文字を思い浮かべることもあるだろう。
50代早々で一次定年を迎え、その後のコースを選ぶように
なっている組織も少なくないそうだ。
そう考えると、古代インドの人生四区分け、現代日本にもだいたい
あてはまると考えられるだろう。
だが、現代の50代や60代は、心身ともにまだまだ若い。
そのうえ、日本人の寿命の長さは世界一だ。最近では、90歳
は軽く、なかには100歳を過ぎても矍鑠としている人も珍しく
はない。
本当にしたいことをしたいようにする「林任期」がかぎりなく
長いのだ。
この「林住期」の生き方を、私は、幼子に学べばいいと考えて
いる。
以上。
この話は、大分昔に、なんかの本で読んだことがあった。
しかし、今回、久しぶりに、この文章を読んで、気づいた
のだが、全く、見落としていたところがあった。
ここである。
50歳から75歳が「林住(りんじゅう)期」。
もはや金のために仕事をする必要はなく、本当にしたいことをする、
人生でもっとも充実した時期。
その後は、旅に出て、自分が何者かを見極める「遊行(ゆぎょう)期」
となる。
この部分である。
実は、この部分がまったく記憶にないのである。
それにしても、わたしの現実となんと、乖離していることだろう。
いや、大方の定年組という方がいいのかもしれない。
現役の時は、毎年増えっぱなしで、次々と舞い込んでくる仕事に、
歯ぎしりをしながら、過ごしていた。
なにしろ、自分たちの職場以外で、自分たちの日々の本質的な
業務に関係のない仕事を次から次へと作ってくれるのだから、
不条理感、極まりない。
退職がどんなにか、羨ましかったことだろう。
しかし、退職してみれば、それは、それは「隣の芝生は青くみえる」
ことであるなんて、誰が想定していただろう。
定年は、労働力の消費期限が終了したための、合法的、強制的解雇
であるなんてね。年金と引き換えの。
その本質的な意味が、まったく理解できてなかったとはね。
それが、かつては、なんの勘違いか、とても眩しく見えたという
ことか。
今や、木枯らしが吹きまくる、荒れ野を彷徨い歩いているよう
なものだ。
結局、定年があんなに、青くみえたのは、自分の労働力の消費期限
が迫りつつあったという警告だったのだということに、気づかなか
っただけだったということだろう。
よくよく考えてみれば、自分の才能を持て余していれば、自分の
才能を試すのに、忙しくて、定年なんて考えている暇なんてないし、
それがちらつくことなんてないはずであるからだ。
それにしても、麻薬中毒患者が、その中毒からなかなか抜け出せ
ないように、仕事中毒もやはり、なかなか抜け出せないようで、
やっかいだ。
問題は、大した仕事をしてない凡愚が、その中毒から抜け出せ
ないのはことやっかいだ。
もしかして、凡愚であることを直視するのが怖く、自分自身を
誤魔化すために、仕事に執着していたのだろうか。
もしかして、自分自身も自分の周りも騙していたかもしれない。
自分の現実、自分の正体を見ることが怖くて。
時折、思いだすことに、こういうことがある。
どの本で、いつ読んだのか、記憶は定かでない。
昔、アメリカの南北戦争で、奴隷が解放されて、自由になったの
だが自由になったものの、どうしていいか分からなくて、もとの
奴隷主の所に帰ってきた。という話である。
この話の言わんとするところは、人は自由になったからといって、
自由を享受するのは、なかなかできないことである。というふうに
とらえたのだが。
このエピソード、自分のことかと、思ったりせんこともない。
いよいよもって、伊能忠敬の偉さに敬服するばかりである。
ところで、この古代インドの「古代のインドでは、人生を四つの
時期に分けて考えていたという。」話であるが、
「学生(がくしょう)期」。学問・学習をして、体験を積む時期
である。
これである。
この話を現代的に解釈してしまうと、大きな誤解をするのではと、
ふと思ってしまった。
古代インドで、庶民が学問や学習をしていたとは、想定しがたい
のではないか。
この話は、バラモン階級(インドのカースト制度の頂点に位置する
バラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。)の人たちの話では
ないかと思ったからである。
ということで、この人生観は、支配階級の人生観だったということを
念頭におかないと、安請け合いでは、真に受けた人間に、大きなスト
レスを強いるだろうと思ったりしているのである。
何しろ、真似たくても、経済的な裏付けがないという現実があるから
である。
年金生活、もらえるのは、有り難いが、金額的には、生かさず殺さずの
生活しかできないのが現実である。
このような現実に、
50歳から75歳が「林住(りんじゅう)期」。もはや金のために仕事
をする必要はなく、本当にしたいことをする、人生でもっとも充実した
時期。
その後は、旅に出て、自分が何者かを見極める「遊行(ゆぎょう)期」
となる。
このようなことを、試みるなんて、とてもとてもである。
であるが、現実に自分が金があったとしても、試みるだけの資質に
欠けている現実が、なんとも冷酷に横たわっているのが、辛い。
本当にしたいことをする。まったく見当がつかない。
情けない話である。
ところで、話は、また、一転。
このインドの人生観を久しぶりに、出会って思うことが、もう一つ
あった。
それは、古代インドの人生観からすると、なんと、わたしたちの
現代人の考え方と乖離することである。
「金のために仕事をする必要性」よりも、給料に見合う労働力を身
につけないうちから、より理想的な福利厚生の要求と、「生きがい」
とか「自分らしさ」とかが、優先される現代、なんとまあ、こんなに
も逆であることよ。
さて、東日本大震災で、孫正義氏のニュースがあった。
ソフトバンクの孫正義社長は3日、東日本大震災での被災者支援のため、
個人資産から 100億円を寄付すると発表した。
ソフトバンクの孫正義社長は20日、10億円程度の私財を投じ、太陽光や地熱、
風力発電など自然エネルギーの利用について政策提言する財団法人を設立
する意向を明らかにした。
これだけの社会のためにできるだけの富みを蓄える仕事の才能と情熱が
羨ましいものだ。
せめて、その1000分の1の才能と情熱でも、あやかりたかったものだ。
とはいえ、現実は、退職組の身分だ。
勝ち組でない者の現実は、なんとも荒涼たる世界の到来だこと。
いつも、自分の人生に懐疑する毎日だ。
もはや金のために仕事をする必要はなく、本当にしたいことをする、
人生でもっとも充実した時期。
その後は、旅に出て、自分が何者かを見極める「遊行(ゆぎょう)期」
となる。
伊能忠敬にあやかれることを、祈りたいものだ。