映画「猿の惑星 創世記」を見た。
猿が人を支配している世界を描いて、驚愕のラストとともに名作の誉れ高い「猿の惑星」の前日談だ。なぜ、サル(正確には類人猿)が、人間より賢くなり世界を支配したのか。それは、アルツハイマー病の薬を開発する過程で、知能を発達させたチンパンジー・シーザーが誕生し、やがて人間から独立していったのだ……。
で、ここで感想・評を書くことを期待しないでほしい(笑)。いや、すこぶるよい映画だった。私の見た今年の映画で一番の収穫(今の時点)と言ってもよい。
が、ここでは「感想」ではなく「連想」したことを書く。
まず一点。この映画は、「猿の惑星」シリーズの一つに見せかけているが、それはシチュエーションを借りただけではないか。むしろ私は「アルジャーノンに花束を」を思い起こした。知恵遅れの人物を、医学の力で天才にしてしまうという設定に似ている。そして、それがもたらす悲劇も……。ただ、終わり方が正反対である。
そのうえで、類人猿を実験動物にすることの悲劇から連想したのが、「銀色のクリメーヌ」である。これは、清原なつのの漫画だ。
清原なつのを知っているかなあ。一応、少女漫画家である。一応、というのは、活動の舞台が少女誌以外にも広がっているから。かつては「りぼん」や「ぶ~け」などだったのだが。最近では「千利休」の伝記を書き下ろした(といっても数年前だけど)。そして、ファンは男がやたら多いらしいのも少女漫画家でない(笑)。
内容も、ラブコメや歴史もの、SFといった少女漫画風の設定にも関わらず、じんわり深い。ちょっと純文学的でもある。初期の名作「花岡ちゃんの夏休み」は大学が舞台だし、中高生向きと言えない、少女漫画のお約束をぶち破る物語の展開が行われた。
私は、大学時代に下宿先に捨てられていた「りぼん」で読み、夢中になった。その後、彼女の漫画を買い集めたりもしている。今は、復刻版も出ているから楽。
で、「銀色のクリメーヌ」。実験動物としてのチンパンジーを人間として扱いつつ飼う科学者の話だ。作品では、このチンパンジー(クリメーヌ)を少女として描く。だから最初は混乱させられるのだが、この表現手法が実に効果的だ。
実際、チンパンジーは知能の研究に多く使われた。人間の子供と一緒に育てて成長の差をみることも行われた。比較心理学の分野だ。それは学会の流行でもあった。音声言語は難しくても、手話による意思疎通が取られた。
しかし、やがて研究の流行の波は去り、「人間として育てられた」チンパンジーは、扱いに困ってしまう。また大人になったチンパンジーは凶暴になり、一般家庭では飼育するのが困難になる。結果として、動物園に引き渡されたり、実験動物(こちらは知能ではなく、肉体を医薬品開発などに利用される)として送り込まれるのだ。
「銀色のクリメーヌ」は、その状況を残酷なまでに描いている。(最後は泣けるよ……。)
今回の「猿の惑星」は、そのオマージュではないかとさえ感じてしまった。実験動物の反乱から独立、そして征服へとつながるのだから。人間の少女として描かれたクリメーヌの悲しみと、チンパンジーの外見で人の表情をしたシーザーの悲しみは、表裏一体だ。
さて、ここで私が連想したのは、「銀色のクリメーヌ」だけではない。いや、正確にいうと、「銀色のクリメーヌ」からさらに連想が続いた。それは自らの若き頃だった。
実は私もサル学に足を半歩踏み入れたことがあるのだ。
私が初めて訪れた海外は、ボルネオ島。目的は、野生のオランウータン調査だった。その際に接触したのが、当時静岡大学で比較心理学を教えていた岡野恒也教授だった。
彼は、かつてオランウータンを探してボルネオを訪れていた。が、実はその前に自らの家庭で、自分の長男とチンパンジーを一緒に育てる実験を行っているのである。その記録は、本人の本もあるが、同時に奥さんがつづった「もう一人のわからんちん」にリアルに描かれた。
私は、それが縁で教授ともつきあいが続き、サル学の魅力にハマったのである。
が、同時に結末も知る。育てたチンパンジー(サチコという名だったと思う)は、やがて飼育が難しくなり、多摩動物園に預けられる。人間として育てられたのに、チンパンジーの群れに放り込まれた彼女の気持ちはいかばかりだったろう。
岡野教授は、後に「悲劇のチンパンジー」という訳本を出した。それこそ、研究用チンパンジー・無数の「クリメーヌ」の末路を描いた作品だった。
それゆえ、「猿の惑星 創世記」から「クリメーヌ」を、そして「サチコ」の、飼われたチンパンジーの悲劇を連想したのである。それは、サル学に夢中になった時代の自分を連想させることにもつながった。