あれから7ヶ月、一見何事もなかったかのように日々の生活は続いている。凄まじいまでの自然の
破壊力を見せつけられた東日本大震災、そして、それに次ぐ福島第一原子力発電所の爆発事故。
月日の流れは早いもので、もう7ヶ月が過ぎてしまった。私達被災者でなかったものにとっては
そうであったかも知れないが、被災地のみなさんにとっては昨日の出来事のように思われているかも
知れないと思いつつ書いている。
しかし、実際には7ヶ月過ぎたわけで、時の移り変わりは人の悲しみや苦しみとは関わりなく
止まることはない。こうした時の流れに無情感を抱いておられる方も少なくないのではなかろうか。
死んでいったもの、生き残ったもの、その差は一体どこにあったのだろうか。まさに運命と言う
明日をも知れない我が身を感じている人も少なくないのではなかろうか。
そして更に言えば、まれに見るような大地震とそれに続く原発事故は人間というものの傲慢さを
うち砕くような出来事でもあった。安全だと言ってきた原発は何だったのか。今こそもう一度、
問い直さなければならない。
7ヶ月が経過した今日、九州電力の会見では傲慢とも思えるような社長の態度であった。いわゆる
佐賀県知事のやらせメールの問題である。原発推進のためには多くの政治家や財界人が関わってきた。
そして地元の人達も反対派も賛成派も一様に恩恵を受けてきた。原発推進には莫大な金が使われて
きたのも事実である。
だからいくら声高に反対しても原発反対の声は無視され続けてきた。その結果が今日に繋がって
いる。その限りにおいては放射能被害を過剰なまでに心配し騒いでいる人達も同罪だと言える。
あれだけ地球温暖化問題が騒がれながら消費電力を押さえ、自然エネルギーに目を向けて
来なかったのか。もう何年も前から大気中の二酸化炭素増加による気候変動は懸念されてきた。
しかし、一向に改善の兆しは見えなかった。こともあろうに原発推進派の陰謀だとも言われてきた。
ある種の流行語のように地球温暖化は聞き流されてきた。こんな原発報道が最優先される昨今に
おいても地球温暖化は激しさを増して来ている。それが紀伊半島を襲った豪雨であり、タイに
見られる大洪水なのではないだろうか。
また東日本大地震の前には地震災害の報道も繰り返し行われていた。これら一連の報道を人々は
どのように見聞きしていたのだろうか。遠い未来のことだと考えていたのだろうか。プレートと
プレートとの境目に生ずるひずみが限界に達したとき、跳ね返った地盤による海水は大津波と
なって押し寄せることは衆知の事実であった。
その時、自分はどのような行動を取るべきか常日頃から考えておくべきであった。家族間で
綿密な打ち合わせをしておくべきことであった。地域でも連携行動が取れるような打ち合わせを
しておくべきだった。大人なら何よりも家族のことを最優先に考えての備えや心構えをしておく
べきだった。それが安全対策というものであろう。
あまりにも無知であったと言うべきか、それとも考えが甘過ぎたと言うべきか。それはタイの
大洪水にも言えることである。安易に海外進出を考えるべきではない。日本国内では経験的に
予知できることや感覚的に感ずることが出来ることも生まれも育ちも異なる外国ではそうは
行かないことが多い。それが国内と外国の違いであろう。
他国には他国の空気が流れている。気候風土が違えば人も異なる。それは言葉が通じる通じ
ないだけの問題ではない。風土が異なるのである。
さて、原発が大事故をお起こし、かねてより心配していたことが現実のものとなったとき、
これで全てのものが終わってしまったと感じたのは私だけであったろうか。恐らく原発を知る
ものほど強く感じたことではなかったろうか。原発反対を常々叫んでいたものでさえも、
よもや原発事故が現実のものになろうとは考えてもいなかったのではなかろうか。
しかし、東北地方全体が地震に襲われ全停電になり電源が失われ原子力発電所に大津波が押し
寄せたと聞いたとき、これは大爆発やメルトダウンによる大災害が生じるに違いないことが
予測された。
事態の深刻さはその時点から始まっていた。そして、間もなく水素爆発という凄まじいまでの
大爆発へと至った。あの原発建屋の分厚いコンクリート壁が完全に吹き飛んでしまったのである。
すごい破壊力である。そして未だ格納容器の実態すらつかめていない状態である。
あえて考えては見たくない現実が隠されているに違いない。そこはまさに核地獄ではないだろうか。
そして、今もこの現実を不思議な感覚で見ている自分がいる。原発事故から7ヶ月。始まったとき
には想像も付かなかった今日の姿がここにある。そして今日も放射能問題が巷を駆けめぐっている。
破壊力を見せつけられた東日本大震災、そして、それに次ぐ福島第一原子力発電所の爆発事故。
月日の流れは早いもので、もう7ヶ月が過ぎてしまった。私達被災者でなかったものにとっては
そうであったかも知れないが、被災地のみなさんにとっては昨日の出来事のように思われているかも
知れないと思いつつ書いている。
しかし、実際には7ヶ月過ぎたわけで、時の移り変わりは人の悲しみや苦しみとは関わりなく
止まることはない。こうした時の流れに無情感を抱いておられる方も少なくないのではなかろうか。
死んでいったもの、生き残ったもの、その差は一体どこにあったのだろうか。まさに運命と言う
明日をも知れない我が身を感じている人も少なくないのではなかろうか。
そして更に言えば、まれに見るような大地震とそれに続く原発事故は人間というものの傲慢さを
うち砕くような出来事でもあった。安全だと言ってきた原発は何だったのか。今こそもう一度、
問い直さなければならない。
7ヶ月が経過した今日、九州電力の会見では傲慢とも思えるような社長の態度であった。いわゆる
佐賀県知事のやらせメールの問題である。原発推進のためには多くの政治家や財界人が関わってきた。
そして地元の人達も反対派も賛成派も一様に恩恵を受けてきた。原発推進には莫大な金が使われて
きたのも事実である。
だからいくら声高に反対しても原発反対の声は無視され続けてきた。その結果が今日に繋がって
いる。その限りにおいては放射能被害を過剰なまでに心配し騒いでいる人達も同罪だと言える。
あれだけ地球温暖化問題が騒がれながら消費電力を押さえ、自然エネルギーに目を向けて
来なかったのか。もう何年も前から大気中の二酸化炭素増加による気候変動は懸念されてきた。
しかし、一向に改善の兆しは見えなかった。こともあろうに原発推進派の陰謀だとも言われてきた。
ある種の流行語のように地球温暖化は聞き流されてきた。こんな原発報道が最優先される昨今に
おいても地球温暖化は激しさを増して来ている。それが紀伊半島を襲った豪雨であり、タイに
見られる大洪水なのではないだろうか。
また東日本大地震の前には地震災害の報道も繰り返し行われていた。これら一連の報道を人々は
どのように見聞きしていたのだろうか。遠い未来のことだと考えていたのだろうか。プレートと
プレートとの境目に生ずるひずみが限界に達したとき、跳ね返った地盤による海水は大津波と
なって押し寄せることは衆知の事実であった。
その時、自分はどのような行動を取るべきか常日頃から考えておくべきであった。家族間で
綿密な打ち合わせをしておくべきことであった。地域でも連携行動が取れるような打ち合わせを
しておくべきだった。大人なら何よりも家族のことを最優先に考えての備えや心構えをしておく
べきだった。それが安全対策というものであろう。
あまりにも無知であったと言うべきか、それとも考えが甘過ぎたと言うべきか。それはタイの
大洪水にも言えることである。安易に海外進出を考えるべきではない。日本国内では経験的に
予知できることや感覚的に感ずることが出来ることも生まれも育ちも異なる外国ではそうは
行かないことが多い。それが国内と外国の違いであろう。
他国には他国の空気が流れている。気候風土が違えば人も異なる。それは言葉が通じる通じ
ないだけの問題ではない。風土が異なるのである。
さて、原発が大事故をお起こし、かねてより心配していたことが現実のものとなったとき、
これで全てのものが終わってしまったと感じたのは私だけであったろうか。恐らく原発を知る
ものほど強く感じたことではなかったろうか。原発反対を常々叫んでいたものでさえも、
よもや原発事故が現実のものになろうとは考えてもいなかったのではなかろうか。
しかし、東北地方全体が地震に襲われ全停電になり電源が失われ原子力発電所に大津波が押し
寄せたと聞いたとき、これは大爆発やメルトダウンによる大災害が生じるに違いないことが
予測された。
事態の深刻さはその時点から始まっていた。そして、間もなく水素爆発という凄まじいまでの
大爆発へと至った。あの原発建屋の分厚いコンクリート壁が完全に吹き飛んでしまったのである。
すごい破壊力である。そして未だ格納容器の実態すらつかめていない状態である。
あえて考えては見たくない現実が隠されているに違いない。そこはまさに核地獄ではないだろうか。
そして、今もこの現実を不思議な感覚で見ている自分がいる。原発事故から7ヶ月。始まったとき
には想像も付かなかった今日の姿がここにある。そして今日も放射能問題が巷を駆けめぐっている。